やまねこの物語

日記 修復作業

2003年6月、王宮レジデンツに隣接して建つ諸聖人宮廷教会が一般公開された。第二次世界大戦で大きな被害を受けたこの教会は瓦礫のまま放って置かれ1970年になってようやく再建が始められた。そしてその作業が終わり、先に書いたように今月一般公開されるに至った。新聞によるとその復旧費用に1070万ユーロ(1ユーロ=135円として、約14億4400万円)かかったらしい。しかし再建されたのは外観のみで、建設当時華やかであった内装は復元されず、外観でも彫像など壊れたものもそのままで保存された。それらは戦争に対する警告の記念碑として建物を保存するという意図を持つ。また再建されたこの教会は今後、礼拝する場としてではなく、コンサートホールなど多目的な場として利用されることとなった。

ところでミュンヘンは戦後、市長トーマス・ヴィンマー指揮のもと「ラマ・ダマ」と称された復元・復興運動が行われた。これは主に旧市街の建物で、空襲の被害にあったものを戦前の姿に戻すと言うもので、例えば聖霊教会や聖ミヒャエル教会、旧市庁舎などが元通りに復元された。逆に第三帝国を礼賛するモニュメント、例えば栄誉堂、将軍堂のモニュメントなどは戦争の被害に遭っていないものでも破壊撤去された。またヴィッテルスバッハ宮殿など、かつてこれはバイエルン王ルートヴィヒ1世、同3世の居城となったものであるが、第三帝国期はゲシュタポ本部として利用されていたので、悪しきイメージがあり戦後復元はされなかった。同様の理由で当時石畳であったケーニヒ広場も全面芝生に張り替えられた。

それから第三帝国期のものでも党本部、総統官邸などを始め幾つかの建物は空襲の被害にも遭わず、そのまま連合軍に摂取され、その後色々な目的で使われるようになった。例えば党本部は図書館や州立グラフィック収集館など、総統官邸はミュンヘン音楽演劇大学の校舎として利用され、まだそれらの一部には第三帝国期の面影を残してる部分もある。また第三帝国期の建築でも空襲で被害にあったにもかかわらず戦後復元されたものもある。“ドイツ法の家”と呼ばれる建物は国家社会主義の法のアカデミーであったが、戦後、ルートヴィヒ通りに面する側の外観が元通りに復元された。

建物だけでなく第三帝国期に造られた通りや橋などもそのまま現在も利用されている。探してみれば現在のミュンヘンにおいて第三帝国期に造られたものや整備されたものを幾つも見つけることが出来る。今こうして見てみると第三帝国期のものが完全に破壊されているわけではなく、現在もそれがミュンヘンの一部として生きている。戦後、第三帝国期を否定し完全に当時のものを破壊すれば、結局はそれは文化の破壊をしたナチスと同じかも知れない。第三帝国期に生まれた芸術や文化もある。

当時を肯定することはなくても、ただその時代を忘れてはならない。そういった警告の意味を込めて先に挙げた諸聖人宮廷教会も完全には復元されず、また美術館アルテ・ピナコテークもあえて元通りには再建されていない。ミュンヘンの建築史を見ていると最近は非常にモダンな建物が多くなってきたように感じる。どの時代にもそれぞれ独自の文化・芸術、また事情があるので、そういった動き、つまりモダンな建物が多くなってきたことに反対するわけではないが、現在のこのような時期に、莫大な費用をかけて修復された教会は、戦前・戦後、そして将来を結ぶ一つの接点となり、「共存」を考える良い機会を人々に与えるかも知れない。

かつての諸聖人宮廷教会

かつての諸聖人宮廷教会

諸聖人宮廷教会

諸聖人宮廷教会

かつての諸聖人宮廷教会

かつての諸聖人宮廷教会

諸聖人宮廷教会

諸聖人宮廷教会

バイエルン王立銀行

外観を残して新たに建設されている
かつてのバイエルン王立銀行

バイエルン王立銀行

外観を残して新たに建設されている
かつてのバイエルン王立銀行

レジデンツ(アンティクヴァリウム)

レジデンツ(アンティクヴァリウム)

レジデンツ(アンティクヴァリウム)

レジデンツ(アンティクヴァリウム)

アルテ・ピナコテーク

アルテ・ピナコテーク

(2003年06月25日)

 

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