やまねこの物語

日記 「カルロス・クライバーを悼んで」

2004年7月13日に74歳で亡くなった指揮者カルロス・クライバーを悼んで「In memoriam Carlos Kreiber」が12月12日(日)バイエルン州立歌劇場にて行われた。カルロス・クライバーは1930年7月3日、ドイツ・ベルリンに生まれた。1930年代のナチスの台頭を機に、父親で、オーストリアの指揮者であったエーリヒ・クライバーと共にアルゼンチンに逃れた。その際、名前をドイツ語のカールからスペイン語のカルロスに変更する。1952年にヨーロッパに戻り、80年にはオーストリア国籍を取得。主にドイツ、オーストリアで活躍した指揮者である。夫人の出身地であるスロヴェニアで亡くなり、昨年2003年12月に亡くなった夫人の横に埋葬されたとのこと。

バイエルン州立歌劇場では1968年1月13日、リヒャルト・シュトラウス「薔薇の騎士」でデビュー以降、その後20年に渡って260回以上オペラの指揮を振っている(R. シュトラウス「薔薇の騎士」を94回、ヨハン・シュトラウス「こうもり」を71回、ヴェルディ「La Traviata」を41回、同「Otello」を22回など)。またオペラ以外にもバイエルン州立オーケストラのコンサート等でも振っており、バイエルン州立オーケストラを指揮した最後の公式コンサートはバイエルンのインゴルシュタットで行われたコンサートであった(1996年)。「カルロス・クライバーが一番好んだのはバイエルン州立歌劇場である」と州立歌劇場が言ったのも、こういった数字を見れば納得出来るかも知れない。少なくとも彼にとってバイエルン州立歌劇場は最も馴染みのある劇場の一つであろう。

12月12日にバイエルン州立歌劇場で行われた追悼コンサートは、照明が落とされてまず舞台上にカルロス・クライバーの映像が流された。そして劇場総支配人 Sir Peter Jonas 氏の挨拶で始まり、次に指揮者を立てずにバイエルン州立オーケストラによる演奏でジョージ・バターワース「Two English Idylls」(1911)が演奏された。「指揮者がいない」ということは、このカルロス・クライバー追悼コンサートの指揮を任せられるような、それに相応しい人物がいないということかも知れない。つまり、カルロス・クライバーがそれだけ偉大な存在であったとも取れる。

そのあと、Unitel の Jan Mojto 氏が挨拶をした。それに続いて Unitel が編集したカルロス・クライバーの映像が流された。ヨハン・シュトラウス「こうもり」(1986)、ブラームス「交響曲第4番」(1996)、リヒャルト・シュトラウス「薔薇の騎士」(1979)と、それぞれ抜粋ではあったが、おそらく30分以上はあっただろう。僕自身はカルロス・クライバーの生演奏を聴いたことがないが、一緒に追悼コンサートに行った友人と話していたのは、彼の指揮はまるで踊っているかのようで、彼が音楽を作りだしていると言うよりは、彼が音楽に合わせているかのように見えたと言うことだ。彼は音楽を楽しんでいた。音楽の本来あるべき姿がそこにはあるかも知れない。それが指揮者カルロス・クライバーの魅力だろう。もちろんこれらは映像から感じたことであって、実際の演奏を聴いたわけではないので、生演奏に触れると別の印象を受けるかも知れない。ただ映像が流れている中、観客から「ブラヴォー」という声もあったことを考えると、その映像の中にいる彼は確かにカルロス・クライバーであったに違いない。

当日配られたプログラムには Wolfgang Sawallisch 氏もコメントを寄せていた。その最後は「我々は偉大な音楽家を失った」という文章で締めくくられていたが、それは多くの人も感じていることだろう。約90分ほどの、その追悼コンサートで自分自身にはそう感じられた。その日は、僅かではあったが雪が降っていた。その細かい雪が風に乗っていく様を見ていると、それが情感溢れるカルロス・クライバーの指揮によって降っているかのようにも感じられた。

追悼コンサートが始まる前

追悼コンサートが始まる前
 

挨拶

挨拶
歌手グルベローヴァなども姿を見せていたとのこと

追悼コンサートのプログラムとチケット

追悼コンサートのプログラムとチケット

 

(2004年12月15日)

 

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