日記 イッセー尾形ミュンヘン公演 |
「しまった!カメラを持ってくるのを忘れた!」そう気付いたのは劇場に向かうトラムの中だった。時間的に取りに帰るのが難しかったので、その日は(基本的に)友人に写真を撮ってもらうことにした。俳優イッセー尾形のミュンヘン公演はもう何度目かになるが、これまでは時間が合わず観に行くことが出来なかった。今回初めてその機会に恵まれ、それだけ気分が高揚していたのかも知れない。場所はバイエルン州立演劇場の一つであるマルシュタル劇場である。この劇場はマルシュタルという言葉の通り、元々厩舎であった建物(1820-25年建設)で、王宮(レジデンツ)の厩舎として利用されていた。その一部が、今日劇場として利用されている。 今年のイッセー尾形のミュンヘン公演「Katalog des Grossstadtlebens 都市生活カタログ」は3月10日(木)、11日(金)の2日間行われる。今年は第55回ベルリン国際映画祭(ベルリナーレ、2月10日-20日)で彼が昭和天皇を演じた映画が上映されて話題にもなっていることから、チケットも直ぐに売れてしまうのではないかと個人的には思っていた。しかしネットでチケット状況を見ていると、公演が行われる週の前半では、全99席あるうちの60パーセントほどが埋まっていただけで、当日チケット売り場に並んでも購入出来るかと思われた。このチケットの売れ行きは、おそらくその宣伝方法によるものがあるかも知れない。 前回(2001年)の公演の際も(公演があることを)知らなかったという人が回りにいた。それだけ宣伝がなされていないわけだが、もし宣伝すると小さな劇場は日本人ばかりになってしまうかも知れない。ドイツで演じるならやはりドイツ人に観てもらった方が良い。州立演劇の他の演目と同じように演劇に興味のあるドイツ人に足を運んでもらった方が、世界を意識する人物には相応しいように思われる。だから故意に宣伝していないようにも見えた。その宣伝方法の影響か、チケットの売れ行きの方は、先にも書いたが公演週前半は予想していたほどでもなかった。しかし公演を翌日に控えた水曜日になると一気に売れ、まず金曜日の公演が売り切れに、そして木曜日のチケットも片手に数えられるほどしか残っていないという状況になった(その後は確認していないので売り切れになったか不明)。 そして当日、カメラを忘れたことを残念に思いながら劇場を訪れた。僕が劇場に到着したとき、まだ開場されてはいなかったが、劇場入り口前の小さなホールを見てみると、その「宣伝効果」があったのか日本人の数が思った以上に少ないのが分かった。その日は最高気温さえも氷点下だったので狭い入り口ホールに人が集まっている。 そして準備がそれだけかかっていたのか、午後8時の開演少し前になってようやく開場された。当日は全席自由だったので、ホールで待っていた人は自由に席を選んで腰掛けていった。劇場の規模はそれほど大きくなく、舞台が直ぐ目の前にあって何処からでも良く見えそうだったので、良い場所を取ろうという殺伐とした空気もなく、皆適当に腰掛けていった。僕は上段の方に座ったが、周りを見回してみると日本人は全体の30パーセントもいただろうか。具体的な数字は分からないが、多くのドイツ人(外国人)の中に日本人が混ざっているといった感じがした。 午後8時を少し回った頃、照明が落とされ、まず女優であり歌手である Meret Becker が登場し、 Issey Ogata が姿を現すのを待っている観客の、その気持ちの高ぶりを上手く和らげた。同時に客席の正面にある小さな舞台に意識が向けられる。Buddy Sacher と Peter Wilmanns が奏でる音、その時は電車の効果音のようなものだったが、それに併せて、満員電車で身動き取れないサラリーマンを演じる Issey Ogata が舞台上に現れた。いや、Issey Ogata が出てきたと言うよりは本当にサラリーマンが出てきた感じがした。もし「本物」のイッセー尾形氏が舞台に出てくれば、少なくとも僕は、自分と違う世界に住む人を目の前にして、期待や緊張を感じてしまうかも知れない。だが目の前に出てきたのは「サラリーマン」である。舞台上の4人(実際に舞台上にいるのは Issey Ogata のみだった)が、そういった観客側のテンションを上手く和らげることによって、観客の意識は舞台上のサラリーマンにすんなりと入っていくことが出来た。 そのサラリーマンが終わると、舞台横で Issey Ogata は着替えとメイクを始めた。その間を上手く繋ぐように他の3人の演奏が入る。その郷愁あるメロディが都市に生きる者のやるせない背中を感じさせた。そして次に舞台に出てきたのは、何処か頼りなさそうな金髪の若者で、彼は引っ越し屋のアルバイトをしていた。そのようにして Issey Ogata は洋服を着替えるように、自身をも「着替え」て観客の前に姿を現す。髪型や服装だけでなく、その人自身の顔まで替わっている。マルシュタル劇場の舞台と観客席の距離は非常に近く、舞台上にいる人物の表情が手に取るように分かる。 ところで上演は日本語上演で、ドイツ語による同時通訳が付く。同時通訳といっても完全に同じではなく、日本語の後を追うといた感じで、それはマイクによってなされていたので、日本語のセリフが長い時などは、Issey Ogata の肉声とスピーカーから聞こえるドイツ語が重なってしまい、時には聞きづらいこともあった。だから同時通訳ではなくて字幕の方が良いのではと思ったりもしたが、字幕だとそれを読む人は舞台と字幕の二つを追わねばならず、せっかく表情が分かるほど舞台との距離が近いにもかかわらず、逆に遠くになってしまう可能性がある。同時通訳をも舞台の一部と考えるなら、同時通訳は字幕よりも劇場内において役者と観客との一体感を生み出すのに適しているかも知れない。 ただ同時通訳といってもセリフが役者から切り離されてしまうことには違いない。しかし今回の同時通訳は単なる通訳者ではなく、弁士とまでは行かないまでも、Issey Ogata の「声」を伝えていた。今回の公演では知人がいたこともあって、舞台後の打ち上げまでご一緒させて頂いた。その時イッセー尾形氏から伺ったのは、ネタは一人ではなくみんなで考えていると言うこと。舞台に上がるのは一人だが、そういった見えないチームワークのようなものを、この同時通訳からも感じることが出来た。面白いのは、日本人が笑った後、ほんの僅かの時間差があってドイツ人が笑う。これは海外公演ならではの面白さかも知れない。ただその分演じる方にとっては間を意識するのが難しいかもしれないが、いずれにしても同時通訳のための間は気にならないほど、自然にテンポ良く舞台が進んでいった。 こういった同時通訳の問題は、今回のイッセー尾形の公演だけに限ったことではない。例えば日本に外国人アーティストが来日し、同じようにその人の言葉で舞台を演じ、日本語による同時通訳が付くと考えれば分かりやすい。同時通訳はあくまで通訳であって、吹き替えではない。冷静に考えてみれば、人が笑ったことを少し遅れて笑うのは簡単なことではない。その意味においてはセリフが入る笑いが国境を超えるというのは容易なことではないかも知れない。しかし Issey Ogata はその壁を越えた。必要最低限の小道具で魅せる彼の演技の巧さだけでなく、彼らによって生み出されたストーリーの面白さなどによるものだろう。 舞台の方は一度の休憩を挟み、約2時間ほどだっただろうか。その間、社会の大きな波に飲まれながら都市に生きている何人かの人物を見た。どれも今日の日常にみられそうな話しである。Issey Ogata を中心とした彼らの舞台は何処か安心感に似た気持ちを持って観ることが出来、同時に面白かった。ただ「安心感」というものは、もしかすると自分を含めた日本人のみが体験出来たことかも知れない。日本人は満員電車の雰囲気や引っ越し屋の若者など想像がつく。しかしドイツ人にとってはそれらはあまり馴染みがなく、また舞台におけるストーリーの解説は一切なかったので、舞台では一体どのような「日常」を見せてくれるか、ドイツ人は息を抜けない緊張感を持って舞台を観ていたに違いない。しかしそれは同時に演じる方にも言えることである。日本の文化的なことを説明しないで、ドイツ人に日本の文化やそれを元にした面白さを伝えるのは容易なことではないと思われる。その意味において、客席に外国人が多い今回の舞台は楽しむ場所であったとの同時に、緊張感溢れる舞台であったに違いない。 そういえば舞台の後半では、Issey Ogata は声を発さず、マスク(仮面)を付けて色々な人を演じていた(マスクだけでなく洋服も着替えている)。彼は「100の顔を持つ男」とドイツで紹介されているように、彼は幾つもの顔、例えば父親であったり、また女性であったりと様々な顔を持っている。それが仮面によって隠され、仮面の表情一つになってしまうのは、最初は何か残念な気がした。しかし逆に表情が一つしかない中で人の持つ感情、心情を演じるのは、例えば日本の能に通じるような難しさがあるかも知れない。舞台を観ていると非常に切なく感じられる場面もあった。表情は一つしかないにもかかわらず、身体全体と音楽や照明で感情表現する。仮面を付けることによって芸術家 Issey Ogata が「200、300の顔を持つ男」と称される日もそう遠くない気がする。 ところで今年3月のミュンヘンは19年ぶりの寒波におそわれ市内の最低気温も-16度を記録し、積雪も20センチを越えている。外に出てみると最近は晴れの日も多くなり、それらの降り積もった雪も溶けはじめているのが分かる。舞台の時、僕の横に座っていた、おそらくドイツ人だと思われる女性は、最初は拍手もしていなかったが、舞台が進むにつれ、笑うことが多くなり、後半では一番最初に拍手もしていた。太陽が雪を徐々に溶かしていくように、観る人の心も徐々に溶かしていく。それが国境を越えた Issey Ogata の持つ世界かも知れない。 |
|
|
||||
|
|
||||
|
|
||||
|
|
||||
|
|
||||
(2005年3月16日) |
|
|