日記 「ノルマ」 |
ブーーー!!近くから一際大きなブーが聞こえた。ベッリーニ「ノルマ」の公演初日(プレミエ、2006年1月21日土曜日)で公演後の舞台挨拶で演出家 Jürgen Rose が出てきたときだ。オペラやバレエのプレミエ公演の時には、公演後の挨拶で合唱指揮者や振り付け師、演出家も舞台に上がる。 「ノルマ」のプレミエ公演数日前に行われたゲネプロ(総稽古)を観たとき、この演出はブーが出るのではと思った。舞台や演出そのものが良くないと言うのでなく、ただ一つの場面が引っかかった。その場面では舞台上にいる合唱全員が目と口元だけ開いた黒いマスクを被り、自動小銃もしくは拳銃を構えるというもので、その光景はニュースなどで目にするテロリストのイメージに重なる。プレミエ公演に関する新聞記事で「これはケルトかアフガニスタンか」といったことが書かれていたが、衣装がイスラムを想像させるような感じで、その上にマスクなので、観客の中には素直に受け入れられないといった印象があるのも頷ける。 そういえば先シーズンにプレミエを向かえたオペラ、ヘンデル「アルチーナ」(演出Christof Loy)とヴェルディ「運命の力」(同David Alden)でもそういった銃を使った場面があった。前者は全員迷彩服を着て、軍事演習風な演出で、後者は数人が壁に向かって一列に並び、後ろから銃で撃たれるという、まるで強制収容所を思わせる場面があった。特に前者は有名なアリアでの光景だったので、アリアが終わるとブラヴォーの中にブーが聞こえた。このアリアは非常に格好良く決まっていたので、ブーが出たのは演出に関してだと思われる。 しかし「ノルマ」でブーが出たと言っても、それは上記の一部の場面に対してだろう。基本的にこの「ノルマ」の演出は非常に良く作られている。一見すると非常にシンプルであるが、ケルト(古代ケルト、ガリア地方)の樹木を中心にした自然崇拝、大地を母とする地母神信仰が分かりやすく演出され、またローマ帝国に支配されているケルトの人の心情を表すように照明は最初から最後まで暗い。そしてその状況の中で一点の灯火として最初から最後まで燃え続ける炎が舞台上にある。その炎は神に対する祈祷の火であり、またケルト人の内なる決意が現れているようでもある。 舞台構造で巧いと思ったのは舞台転換だ。普通の演出では幕毎にそれぞれの舞台が組まれているが、「ノルマ」では舞台は幕毎に上下に移動し、上の舞台が祭壇の場所、下がノルマの部屋となっている。祭壇が舞台の時は、部屋となっている下のセットは舞台下に隠れており、部屋が舞台となる時にはそれが舞台上に上がってくるというものである。ただ難点を挙げれば、他の演目などに比べて舞台転換に時間がかかりすぎると言うことだろうか。いずれにしても舞台は演出家 Jürgen Rose が演出、衣装、ライトなど総合的に手がけているので統一性、一貫性がある。 先にも書いたが「ブー」というのは演出家が舞台上に出てきた時だけで、それ以外はほとんど聞かれなかった。ほとんどがブラヴォーの嵐だった。プレミエ公演のカーテンコールは実に20分も続いた(新聞報道による数字)。これは2005年のオペラフェスト、ブリテン「ビリー・バット」(22分間)、カヴァッリ「ラ・カリスト」(21分間)に続くものであるが、カーテンコールが20分というその数字は、「ノルマ」の公演に多くの観客が如何に満足したかを物語っている(今回の「ノルマ」の公演の中には、カーテンコールが非常に長いときもあったので、おそらく最長記録を更新したに違いない)。 作品「ノルマ」はオペラの中のオペラと言われる程、特別な作品なので、今回それを歌ったエディタ・グルベローヴァはそのノルマを歌うのに非常に慎重になっていたという記事を目にした。彼女はコンサート形式でノルマを歌ったことはあっても、その35年以上に渡る歌手人生においてオペラで歌うのは今回が初めてである。彼女はこれまで節目となるデビュー30周年、35周年記念コンサートをミュンヘンで行っているので、その特別な歌を初めて歌う場所としてミュンヘンを選んだと言う記事もあった。また「ノルマ」は2005/06年シーズンで任期が終わるバイエルン州立歌劇場の劇場総支配人 Sir Peter Jonas による歌劇場への最後の置き土産といった声も聞かれる。言い換えればグルベローヴァにとってだけでなく、歌劇場にとっても「ノルマ」は大きな意味を持っている。 そのグルベローヴァが「ノルマ」を歌うと昨年発表されてから、様々なところでその話題を目にした。「ノルマ」と言えばマリア・カラス(1923-1977)が思い起こされるが、新聞などには、マリア・カラスは最高のノルマであるが、しかしそれは前世紀の話しである。今世紀のノルマはグルベローヴァだ、と言った記事もあった。また1831年12月26日、ミラノで初演を向かえたときの歌手やマリア・カラスは一音低く歌っていたが、グルベローヴァは楽譜通りに歌うということも、その記事には添えられてあった。 チケットの窓口販売が公演一ヶ月前から始まったが、そこにも複数のテレビカメラが来る程、今回の公演は期待が大きく話題になっていた。少なくとも自分が知っている限りでは、シーズン中の公演のチケット販売にテレビカメラが来たというのは記憶にない。しかも複数来ている。それほど人々の関心も高いというのが窺える。そういえばグルベローヴァがノルマを歌うという、その期待の大きさとその喜びを表す表現として、「まるでクリスマスと復活祭が同時に来たみたい!」と言うのがあった。 今回「ノルマ」は6公演あるが、公演によって歌手の体調や演奏の出来も違うだろうから、またこの作品は自分の最も好きな作品の一つなので、自分は全公演のチケットを購入することにし、まず公演二ヶ月前から発売される書面、FAXでの販売に申し込んだ。こちらは早くにチケットを確保出来るが、購入の際に指定出来るのは値段カテゴリーだけで、座席の位置までは決められない。たとえそれで購入出来たとしても、全く見えない席であったり、一番端の席ということもある。今回の「ノルマ」ではそれにも人が集中していたのか、それぞれの公演二ヶ月前の発売開始日当日に「受付終わり」となり、自分も6公演申し込んだうち、2公演しか購入出来なかった。その他は全て抽選による外れだった。友人や知人で申し込んだ人の結果を聞いてみたが、大体同じ状況で、そこから判断すると、抽選の当たり外れは申し込んだ値段カテゴリーの影響を受けないということだった。 その他の公演はその都度、公演一ヶ月前に窓口に並びに行った。窓口によるチケット販売は午前10時に始まる。トラムの乗り継ぎがいいので、自分はいつも午前4時半頃、窓口前に行ったが、それでも順番は二桁という時があるなど、気合いを入れている人が多いのが分かる。朝早く並んだ甲斐あってか、希望する席のチケットを取ることが出来たが、どの公演もチケット販売開始後10数分で完売となった。特にプレミエ公演の時はおそらく色々な招待などがあるのだろう。販売されている数が少なかった(今回の公演はどれも販売数が少なかったように感じる)。プレミエ公演のチケットを購入するのに、中には朝7時台から並んだのに買えなかったという人もいた。それほど早くに売り切れてしまった。 プレミエ公演が行われた2006年1月21日土曜日、開演一時間以上前、つまり開場前よりも早くに歌劇場に向かった。自分の中でも「ノルマ」に対する気持ちを抑えきれなかったのだろう。歌劇場に近づくと、歌劇場前で多くの人が「チケット求む」と書いた紙を手にしているのが遠くから見ても分かった。ところでこの日は公演の模様がラジオで生放送されるので、歌劇場内ではインタビューがなされていた。またプレミエ公演ということもあって、普段より正装率が高いように感じられた。 正装と言えば、今シーズンの最終公演日(2月18日、土曜日)が最も正装している人が多かった。歌劇場内に入ると「ようこそ」と書かれた看板があって、その後に幾つかの企業名が並んでいる。その日は難病の子供達のためのチャリティーを兼ねていると言うことで、企業のお偉方や有名人が多く来ているのだろう。撮影もなされており、テレビで見かける人の姿もあった。同時にカメラマンの姿も多かった。この最終公演日は、オペラフェストと同じかそれ以上に着飾っている人が多く、蝶ネクタイの人だけでなくドレスの裾を引きずっている人達が違和感なく劇場に溶け込んでいた。 今回の「ノルマ」の公演、感想としては非常に緊張した公演だったということが挙げられる。オペラの演奏に対して、自分が緊張しても仕方がないのだが、自分の中でそれだけ期待が大きかったのは確かである。舞台上から感じられる緊張感、演奏の緊張感、こういったものはCDやDVDで体験することが出来ないものである。自分が歌劇場に通う理由の一つがそこにはある。演奏の出来・不出来はあっても生演奏でしか得られない迫力、緊張感を楽しむことが出来る。 「ノルマ」ではグルベローヴァの歌に注目が集まる。聴衆の方はその彼女の歌を一瞬たりとも聞き逃すまいといった、何処か緊張に似た期待があった。特に最初のアリアが始まるときには歌劇場内は静まりかえり、その静寂さえ、うるさいと感じられるような状況だった。多くの人が身じろぎ一つ出来なかったに違いない。歌が終わると凄まじい程のブラヴォーが劇場を包み込んだ。 その後、舞台からノルマが消え、巫女アダルジーザとローマの将軍ポリオーネの幕になるが、ある日の公演では自分の周辺でちょっとしたことが起こった。それまでのグルベローヴァの歌に対する期待感、そして歌の緊張感から解放されたせいか、自分の席の近くで突然、スゥー、ハァーと非常にゆっくりとした、そして大きな寝息が聞こえてきた。「こんな時に寝るなんて!」と周りの人も思ったに違いない。そちらに目をやると、どうやらそれは年配の男性のよう。しかし横にいる女性が「どうしたの?どうしたの?」と体を大きく揺すっているが、男性は寝息だけで揺すられるままになっていた。暫くして、その男性はハッとして普通に戻ったが、どうやら一時的に気を失っていたというこだった。 そして別の日の公演、ほとんど同じオペラの箇所でいきなり客席から「ひゅーん」だか「ひゃーん」だか、そういった奇声が聞こえた。そしてパルケット(一階席)の中央から人の動く音が聞こえた。どうやら観客の誰かが倒れたらしい。通常の公演で、そういったことが起こっても演奏は止められず続けられるが、今回はほぼ中央の座席ということ(出るためには横の人が全員立ち上がらなければならない)と、テレビ(DVD)のため演奏が録画されていたので、それにも影響を及ぼすからだろう、歌劇場内の照明がつき演奏が止められてしまった。倒れた人は周りの人に担がれて出ていったが、おそらく相当興奮していたに違いない。 その時は数分後に歌劇場内の明かりが消え、再び演奏が始まった(少し前の箇所に戻るかと思っていたが、演奏は次の所から始められた)。しかし新たに始まったその演奏は、それまでとは大きく変わり非常に緊張感のないもので、全く別のオーケストラでは、といった印象さえ得た。しかしその状況を救ったのは、ポリオーネ役の Zoran Todorovich だった。 彼の迫真の演技が舞台に再び光を甦らせ、観客の目を、耳を舞台に集中させた。彼の声質は堅く、無骨な感じなので、オペラの役によっては、甘いテノールの声を期待している人達からブーを受けることが多い。 しかしグルベローヴァの声との相性を考えると、グルベローヴァの柔らかい声に対して、彼の芯のある固い声は存在感があって舞台で生きるに違いない。またローマの将軍として彼は他の宗教を踏みにじるような無神経さ、傲慢さ、また人を愛するときの人間的な弱さを上手く表現している。何より彼はドニゼッティ「ロベルト・デヴリュー」(ロベルト・デヴリュー役)でもそうだが、殴られ役が何故か似合う。今回の「ノルマ」を観て、彼に対するイメージが自分の中でも良い方に変わり、ポリオーネ役として彼は天性のものを持っているのではと感じられた(彼はこの役を既に別の劇場でも歌っていたので、慣れていたこともあるだろう)。 またアダルジーザ役の Sonia Ganassi がグルベローヴァと息のあった歌を聴かせており、彼女無くしてこの「ノルマ」はあり得なかったと思われる程、存在感があった。実際彼女に対してグルベローヴァの次に盛大なブラヴォーがあった。同時に Roberto Scandiuzzi もケルトの置かれた状況を、そしてノルマの父である状況を表すような、低く、しかし何処か温かみのある声を聞かせてくれる。そして迫力ある合唱。 グルベローヴァが歌うとき、オーケストラだけでなく、その他の歌手からも気合いのようなものが感じられ、非常に引き締まった舞台になる。彼女が作品にもたらす影響力は絶大なものがあるが、しかしこの「ノルマ」では彼女以外の存在が、それぞれの持ち味を発揮し、決してグルベローヴァの一人舞台という風にならなかったのが、今回の公演の質の高さを証明していた。しかしそういった状況でも、ノルマを歌うグルベローヴァの存在は別格であった。 グルベローヴァは彼女の回りの空気さえも使って表現しているようである。そしてその空気は観客を包み込むような柔らかさがあり、その場にいるものは、その温もりの中でノルマを体験した。また彼女の演技は公演を追う毎に迫力を増し、最終公演では演技と言うよりも彼女自身の物語という気がするほどであった。彼女はその感情表現の一つしてコロラトゥーラを巧みに聴かせ、同時にピアニッシモで持続する所を聴いていると何故だかこみ上げてくるものが感じられる程に純粋な気持ちにさせられる。それは単にメロディが綺麗、声が綺麗というものではない。感情を持つ音に体が共鳴したのだろう。そして歌が終わったあと、一瞬間をおいて沸き起こる凄まじいブラヴォーの嵐。これこそがオペラの醍醐味かも知れない。観客は彼女の中にノルマを見ている。それ故、グルベローヴァはノルマを演じたと言うよりはノルマを復活させたと言った方が良いだろう。 ところで今回の公演は約一ヶ月に及んだ。公演と公演の中日が4日から6日ある。他のオペラでは中一日、中二日といった感じが多いが、それだけこの作品を歌うのは大変なのだろう。そして今回はその最後にドイツの労働組合 ver.di のストライキと日程が重なってしまった。これはドイツほぼ全土で行われたもので、バイエルン州立歌劇場では舞台関係者のストライキにより、その期間、一部のバレエが中止になり、オペラも数公演が舞台形式ではなく、コンサート形式に変更になった(その他にオペラ形式でもセットを組めない公演もあった)。こういった状況はバイエルン州立歌劇場だけでなく、他の歌劇場でも見られた。 「ノルマ」の最終公演はチャリティーコンサートということで、ストライキは行われなかったが、公演当日の開演前、歌劇場の正面にはストライキに参加している人々の姿があった。またオペラが始まる直前に、劇場総支配人による挨拶があり、舞台上で大道具の人など舞台関係者からストライキに関する説明があった。彼ら無くしてはオペラは成り立たない。公演後のカーテンコールでは彼らも舞台に出てきて、観客だけでなく、出演者からも拍手を受けていた。舞台が歌手やオーケストラだけで成り立っているのではないということが改めて思い起こされる。そしてそういった舞台制作に携わる人達や出演者だけでなく、観客がいて、初めてオペラの空間が生まれる。 そのオペラというものは、目に見えるもの、耳に聞こえるものだけではない。見えないものや聞こえないものを感じる総合芸術だ。その目に見ないそのものに触れたとき、ノルマは自分の中でさらに生き続けるだろう。 |
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(2006年02月20日) |
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