ローマ教皇(在位2005年4月19日-)ベネディクト16世がミュンヘンを訪れた。彼はバイエルンのマルクトゥル・アム・インという街の出身で、本名をヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー(1927年4月16日-)と言う。彼はルートヴィヒ・マクシミリアン大学(ミュンヘン大学)を卒業した後、1977年ミュンヘン・フライジング大司教区の大司教に任命され、その一ヶ月後には枢機卿の地位に就いた。そして教皇ヨハネ・パウロ2世(1920年5月18日-2005年4月2日)が亡くなった後に開かれた教皇選挙にて第265代ローマ教皇に選ばれた。
その教皇ベネディクト16世が2006年9月9日(土)から13日(水)まで地元バイエルンを訪れる(ミュンヘン、アルトエッティング、マルクトゥル、レーゲンスブルク、フライジング)。報道などでは「訪れる」だけでなく「帰ってくる」という表記もあった。そして9、10日両日に教皇がミュンヘンを訪れた。
9日(土)の午後、テレビを観ているとミュンヘンの街の様子が報道され、多くの人が街の中心マリエン広場で彼の到着を待っている映像が映し出されていた。また街の警備、例えばマンホールの蓋も剥がされ、ゴミ箱やポスト、放置自転車が撤去されている報道もあった。そして今回、教皇が旧市街地に来るのにあわせて地下鉄(U-Bahn)や近郊電車(S-Bahn)、トラム、バスの一部が運休になり、街中に来るには徒歩か自転車で、というアナウンスがなされていた(同時に一部の商店も閉店となった)。
予定では15時30分頃にフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港(ミュンヘン空港)にアリタリア機で到着するとある。教皇を乗せた飛行機が到着したとき、それを示すために市内の教会の鐘がなるという。自分はそれに合わせて、街中に行くことにした。旧市街地に近づくと、普段よりも警官の数が多く感じられたが、歩行者天国のところはそれほど厳重な警戒がなされているという雰囲気でもなかった。街中を歩く人も普段と変わりがない。しかし地下鉄へ降りる階段が数人の警官によって閉鎖され、また建物屋上で警備をする警官の姿を目にしたとき、少し緊張感が感じられた。
聖母教会の壁には大きなモニタが設置されていたが、そこには空港での教皇の挨拶の模様が映し出されていた。15時22分に彼を乗せた飛行機は到着したということ。教会の鐘が鳴るということだったが、自分には聞こえなかった。モニタには連邦大統領ケーラー、連邦首相メルケル、バイエルン州首相シュトイバー夫妻などの姿が映し出されている。教会前ではモニタに教皇が映されるたびに拍手をしている人達がいた。
夜、部屋でそのニュースを見ていると、大統領と教皇の挨拶の模様が報道されていた。プロテスタントの大統領は挨拶で「ドイツは宗教改革の発祥の地だが、カトリックもプロテスタントもキリスト教徒として互いに理解し合っている」と述べ、それに対し教皇が「500年の歴史を消すことは出来ないが、それでも私たちは理解し合っていると、心から感じます」と挨拶をした。空港での挨拶は、大統領や軍によるもの以外に、バイエルンの民族衣装に身を包んだ射撃団体の挨拶もあった。
教皇が空港に到着した頃、自分は旧市街地内にいたが、教皇のパレードにあわせて急に警備が厳しくなったように感じられた。パレードコースの沿道にはフェンスが置かれているが、その前に立つ警官によって通りの反対側にも行けないようになっていた。通りの向こう側に行きたかったので、警官にそのことを言うと、「申し訳ないが、既に閉鎖されているので、旧市街地の外側を回って」と言うことだったので、歩いて旧市街地を出て、別の場所から入り直した。
自分はルートヴィヒ通りかオデオン広場の辺りで、パレードを見ることにした。テレビで見ると、この辺りは人が少なく、教皇を見ることが出来るかも知れない。そう思ったからだ。マリエン広場の方では早朝から人が並び始め、午後の時点では近づくのも難しくなっていた。個人的には、テレビの映像などでよく見るパパモビールと呼ばれる教皇専用車を見てみたかった。
ルートヴィヒ通りの辺りは、テレビで放送されたときよりは人が集まっていたものの、何列も人の列が出来てパレードを見られないというほどの状態ではなかったので、適当な場所を選んでパレードが始まるのを待った。オデオン広場に目をやると、そこには先程の聖母教会で見たのと同じようなモニタが設置され、教皇の様子が映し出されていた。空港から市内へ向かっている車の列が映し出されている。
上空にヘリコプターの数が増え、映像がルートヴィヒ・マクシミリアン大学をとらえると、大きな歓声と拍手が沸き起こった。パレードはそこにあるゲオルギアヌムから始まる。この建物はルートヴィヒ通りに面しており、暫くするとモニタに数台の車に警備されたパパモビールが映し出された(17時頃)。歓声と同時に多くの人が通りを覗き込む。ところでルートヴィヒ通りの長さは約1キロある。その端からパレードは始まり、自分が立っていた、その通りの反対の端側、つまりオデオン広場近くでは、教皇が前を通るまでに10分近くの時間があった。自分の前に立つサングラスをした数人の警官がその場の緊張感を高めているように感じられる。そして自分の後ろを見ると幾重にも列が出来ていた。
徐々に歓声が大きくなってきた。自分は沿道の2列目に立っていたので、通りを覗き込むことが出来なかったが、それでもパパモビールの車体が近づいてくるのが分かった。予想以上に車体が大きい。歓声が上がる。ヴァティカンの黄色と白の旗を振る人。奇声を上げる人。カメラを向ける人。「ベーネディクト!」と合唱する人々。その間を縫ってパレードは進んでいった。パパモビールが進む速度は、それほど速くなかったが、何か一瞬の出来事のように思われた。そういえばパパモビールは防弾ガラスで出来ているが、その窓も開けられており、教皇がその車に乗るのは、防弾のためと言うよりは象徴のためといった気もした。
その後、教皇はマリエン広場に到着した(17時半頃)。自分はそこにいた他の人達と同じようにオデオン広場のモニタを見ていた。ドイツにおけるカトリックの中心地ミュンヘン。そして街の中心マリエン広場に建てられた黄金のマリア像を冠するマリエンゾイレ(マリア柱)。その前で祈祷が行われた。自分はそこで広場を後にしたが、教皇はその後、レジデンツ(王宮)で行われたメルケル首相との政治的対談を行った後、大司教宮殿(歴代の大司教、枢機卿が住んでいる宮殿)に向かったということ。報道によれば、この日は7万人の人が教皇を出迎えたと言うことだった。
翌10日(日)はメッセゲレンデという市内から少し離れた場所で野外ミサが行われる。こちらは25万人が訪れると言うものだった。しかし訪れるにはチケットが必要とあったので、自分は諦めていたが、友人から一枚譲ってもらうことが出来、会場を訪れることが出来た。ミサは午前10時に始まる。チケットには午前9時には席に着いておくようにとある(席といっても椅子があるわけではなく、広場で立ってミサに参加する)。また地下鉄の駅にある案内やホームページなどにも「一時間以上の余裕を持って」といったことが書かれていた。
そしてこの日は最寄り駅であるメッセ東駅は閉鎖され、会場に一番近い駅はメッセ西駅であった。ここから会場は約1,5キロある。そういえばミュンヘン以外の街からミュンヘンに向かう電車は午前2時から走り出すとあった。また市内の地下鉄2、4、5号線はそれぞれ3時から電車が走り出し、午前4時半からは5分おきに電車があると言うことだった。また車では、会場最寄りのメッセ西駅までしか乗り入れることが出来ず、会場には徒歩や自転車で来るのが良いと案内されていた。「ミュンヘン東駅から9キロ」「アラベラパークから8キロ」といった風に。
ところで今回はメッセ東駅だけでなく、幾つかの駅が閉鎖されていた。例えばその地上を教皇が乗った車が通るなど警備的なことがあるかも知れないが、もしかすると、5分おきに電車が動くと言うことで、その時間調整のために閉鎖されると言うこともあるかも知れない。
ミサに参加するものは、先にも書いたように午前9時までに自分の場所に行かなければならない。そして一時間以上の余裕を持っていくなら、午前8時前には会場に着いているのが望ましい。また祈りは午前6時から始められ、同時間からテレビの放送も始まるということだった。午前4時半から5分置きに地下鉄が出ると言うこと、また入り口での警備チェックの混乱などを意識して、自分は午前4時半に家を出ることにした。
午前5時半過ぎ、会場最寄りのメッセ西駅に到着した。地下鉄の中もそうだったが思った以上に人が多い。駅を出て暫く歩くと、入場チェックがなされていた。ここでは、首からかけられるようになっているチケットを見せるだけだった。その後約1,5キロを歩く。その途中に入り口ゲートがあり、手荷物検査などがあった。手荷物に関して、瓶や傘、(ミサの時に地面に座るための)椅子の持ち込みは禁止されているとパンフレットに記載されてあったので、自分は出来るだけ荷物を少なくしていったが、多くの人は大きなリュックサックに食事や大きな敷物をつめて来ていた。そういえば会場に入場してから全員にビニール袋が配られた。その中には祈りの本や雨合羽、清涼飲料のペットボトルが入っていた。
午前6時半頃、ミサ会場に到着した。既に人が多い。座席は合計12のブロックに分けられており、自分のブロックで適当に敷物を敷いて地面に腰掛けた。辺りは真っ暗である。月だけでなく星も見えている。その中を幾つかの大型モニタが、ライブ放送でテレビでも放映されている会場を映し出し、幾つもの照明器具が会場を明るく照らしていた。風はほとんどなかったが、とにかく寒い。帰ってから気温を調べてみると朝の気温は8度と言うこと。会場では寝袋で寝ている人や敷物の上でセーターを着て横になっている人が多く見られた。朝早く会場に来た人達だろう。
7時前になりようやく空が明るくなり出し、空に浮かぶ雲に朝陽が反射して、雲が燃えるようなオレンジ色に染まっていた。暫くすると陽が昇り、周囲に長い影を描き始めた。しかしその頃になると空は真っ青になり、幾つかの白い雲がその中に浮いているのが見えた。午後7時を回った辺りから、人も増え始めてきた。8時になると敷物が他の人の迷惑になると感じられる程に多くの人の姿がそこにはあった。この日のミサのために用意されたチケットは25万枚。一か所にそれだけの数の人がいるので、いつの間にか熱気が感じられるようになっていた。
午前6時から続いていた祈りが終わり、会場にバイエルンの民族衣装を着た人達がパレードをして入場してきた。そしてモニタの画面には上空から見た、教皇が滞在している大司教の宮殿が映し出された。暫くすると数台の黒い車が動き出した。カメラが切り替わり、その後部座席に座った教皇の姿をとらえる。沸き起こる歓声と拍手。映像はそのまま上空からの車の動きを映し出していた。
教皇の乗った車がミサの会場に到着し、彼が車から地面に降り立ったとき、大きな歓声と拍手が沸き起こった。前日もそうだったが、彼が地面に降り立つだけで大きな歓声が起こったのは、彼が特別な人、最高の警備を必要とする人で、その彼が防弾ガラスなど無しで、我々と同じ空気の中にいるという喜びや驚きのような気持ちが人々の中にあるからかも知れない。教皇はその後、パパモビールに乗り換えて、会場内を回った。やはり教皇を間近で見られるとあって、多くの人が興奮した状態にあった。そういえばこの日のパパモビールは窓が閉められていた。
午前10時になりミサが始められた。(日本語にすれば)祭壇島と名付けられた舞台が正面に設置され、そこに教皇が姿を現した。舞台の壁には、教皇の紋章が描かれている。そして彼は母国語であるドイツ語で話しを始めたが、その中で「グリュース・ゴット!」と、バイエルンで話されている言葉で挨拶をした。この時、会場が一番盛り上がった。会場では多くの旗が振られていたが、最も多いのは白青チェックのバイエルン旗だった。人々の中には、やはり彼はバイエルン出身の教皇という意識が強いのかも知れない。ミサは正午過ぎまで続けられたが、この時になると気温も25度まで上がり、また日差しも強く、中には地面に座り始める人の姿も見受けられた。
ミサが終わり、大きな拍手が会場を包み込んだ。中には「ベーネディクト」と合唱している人達もいる。バイエルン出身の教皇がバイエルンで行うミサ、これは自分にとっても良い経験になっただけでなく、多くの人の記憶に残るものになったに違いない。そんなことを思いながら会場を後にした。空には「青」というよりも「ブルー」が似合う輝くような高く眩しい世界が拡がっていた。
(教皇はその後、夕方に聖母教会でミサを行い、翌日アルトエッティングに向かった。)
以下の写真は全て2006年9月9日(土)、10日(日)に撮影したもの。
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