やまねこの物語

日記 ラファエロに捧げる美術館

アルテ・ピナコテーク1826年4月6日、ミュンヘン市内で、ある美術館のための定礎式がバイエルン王自らの手で行われた。その日はラファエロの誕生日に当たる日だった。世界に名だたる美術館にするためにあえてその日が選ばれた。

そして10年後、その美術館は完成し、開館した。しかしその開館に当たってはかなりの変更があった。定礎式が執り行われる前、この美術館は別の場所に建設される予定だった。

しかしそこでは建物を建設するとその土地柄、絵画館が西側になり、西日が建物の中に入ると言うことだった。絵画を展示するためには北側に向けて展示をしなければ絵画が傷んでしまう。

そこで幾つかの候補地が挙げられ、最終的に選ばれたのが現在の場所である。しかしその絵画館も第二次世界大戦の空襲によって建物中央が破壊された。

絵画はその前に疎開させてあったので難を逃れたが、それでも絵画のための適切な展示場所が灰にまみれた瓦礫の山となってしまった。

戦後、この建物をどう修復するか、それとも取り壊すか話し合われた。その結果、修復する方向で考えられたが、空襲の被害を受けた場所は簡素化して修復ということになった。同時に建物上部を飾っていた彫像も全て取り外され、内部もシンプルなものに換えられた。

そして実際に崩壊した箇所。ここは簡素化されて修復されることになったが、同時にそれは戦争に対する警告を兼ねるように意識され、美術館そのものが碑となるように再建された。

今日その前を歩いていると、煉瓦造りの美術館に夕日が当たり、建物が燃えるようなオレンジ色に染まっていた。

しかしその簡素化されて修復されたところは装飾のないむき出しの煉瓦だからか陽の光が当たっているにもかかわらず他の場所と温度差があるように感じられた。

そして空襲の被害に遭っていないところ、そこはルネサンス様式の装飾が連続しているところだが
空襲の被害にあった場所でそれがフッと途切れる。その途切れ方を目にすると、実際に空襲の被害にあっていないにもかかわらず、そこが逆に廃墟のようにも感じられた。


写真は日記当時に撮影したもの。
建物左側が空襲を受けていない場所、右側が簡素化して修復された箇所。

(2006年12月21日)

 

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