やまねこの物語

日記 蝶々夫人

先日、プッチーニの有名なオペラ『蝶々夫人 Madame Butterfly』を観に行ってきた。場所はミュンヘンにあるドイツ劇場 Deutsches Theater。一般的にミュンヘンでオペラといえば、バイエルン州立劇場、ゲルトナー州立劇場、プリンツレゲンテン劇場、クヴィリエ劇場で上演されるのが普通で、それ以外ではあまり上演されない。だが、この「蝶々夫人」はなぜかドイツ劇場で上演された。ドイツ劇場は普通、ミュージカルやバレエ、ショー、オペレッタ、ダンスなどを上演する劇場であり、そこでは普段、オペラは上演されない。

今回、この「蝶々夫人」がドイツで上演されるのはミュンヘン・ドイツ劇場だけで、イタリア領事館が後援している。オペラ「蝶々夫人」、僕は名前を知っているだけで、当然話の内容も知らない。いつものことながら予習していった。「蝶々夫人」の舞台は明治時代の長崎だ。物語を簡単に説明するとこうだ。

長崎に赴任したアメリカ軍人ピンカートンは日本での退屈さを紛らわすため、一時日本の女性と結婚することにする。相手は元々良家の娘だった蝶々さん。そんなこんなで、ピンカートンは赴任を終えアメリカに帰り、蝶々さんは彼との子供と一緒に長崎で彼の帰りを待つ。3年後、彼はアメリカで結婚した女性を連れて長崎にやってくる。それを見て自分の立場を知った蝶々さんは、「恥に生きるより、名誉に死ぬ」と自害する。と、こんな内容だ。そこに蝶々さんの気持ちを知る女中 SUZUKI などが絡んでくる。

このオペラの主役はもちろん蝶々さんだ。その蝶々さんを演じるのは、日本人の出口正子という人だ。僕は当然その人の名前も知らなかったが、日本では結構知られていて、世界中の歌劇場で歌っている人らしい。この人が日本で主役をやるオペラは結構売れるということを聞いた。だがこのオペラ、蝶々さんは3人いるのだ!蝶々さんだけでなく、アメリカ軍人ピンカートンも2人、女中 SUZUKI も2人いる。指揮者も2人いるのだ。

というのは、このオペラは2000年6月15日から同年7月2日まで、月曜日以外毎日上演されている。土曜日は午後と夜、一日2度上演されている。毎日の上演なので、出演者や指揮者の疲れを考えてか複数の人が準備されている。といっても一回の公演に蝶々さんが3人出るのではなく、毎回の公演によって出演者がかわる。だから公演日によって蝶々さんが、出口正子という人だったり、それ以外の人だったりする。キャストは当日の開演一時間前にならないと分からないそうだ。

キャストが分からないということ、オペラが普段上演されないドイツ劇場だったこと、公演回数が多いということ、その他、おそらく宣伝不足などの問題で当日、僕が劇場へ行ったときは、結構な数の空席が目立った。このドイツ劇場、全部で1600人入ることが出来る。でもおそらくその半分も埋まっていなかったと思う。といってもそれらのことは、劇場へ行くまでわからなっかた。僕は3階席の、しかも値段が下から2番目に安いチケットを購入していた。だが当日劇場へ行って、チケットを見せると、劇場の案内の人に「一階席の一番高い値段帯の席に座っていい」とのことだった。それくらい人が入っていないのだ。劇場では、人が少ないとき、後ろのチケットを買っている人を前に詰めさせたりすることはよくある。結果的には一階席約1000人入ることが出来るところに6、700人入っていたといった感じだろうか。

何となく、出演者に対して申し訳ないような気がしているうちに舞台が始まった。この日の蝶々さんは日本人の出口正子という方だった。他にも一人、坊主役で日本人の方が出ておられた。で、蝶々さんはやはり上手い。出口さんは見たところ、舞台上で一番小さい方に見えた。でも一番声も大きくて迫力があった。歌以外でも特に一番最後の場面で自害するところ、短剣を胸に突き刺すのだが、僕の前列に座っていた、おばさんも、その一場面でビクッ!と肩が上がるくらいの迫真の演技だった。色々な演出やオーケストラの演奏も良かったのだろう。幕が下りて最後の挨拶で、出口さんに対する「ブラヴォー!」の数が一番多かった。床をダンダン蹴る人もいた。

出口さんは僕と同じ日本人でも、舞台上でのその存在感からか、僕は出口さんが僕と同じ日本人だということをすっかり忘れていた。というか全然そのようなことを意識していなかった。でもどちらにせよ僕は初めて、世界を股に掛ける日本人を見た。世界に出ることが必ずしも偉大なことだとは決して思わないが、最近色々な分野で活躍している人がいる。僕自身は表舞台で派手に有名になる必要はないが、毎日出来ることをちゃんと頑張っていこうと思った。

舞台後挨拶 

舞台後挨拶
その他(脇役的)な人たち

 

舞台後挨拶

舞台後挨拶
メインで出演していた人たち
中央白い着物の方が出口正子さん

 

 (2000年6月25日)

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