やまねこの物語

日記 ヒトラー
ヒトラー、日本人はなぜかヒットラーと発音するが、すなわちアドルフ・ヒトラーのことである。第二次世界大戦でアメリカをはじめとする連合国はドイツ第3帝国を徹底的に破壊した。ナチズムの遺産を残さないために多くの街が爆撃された。しかし何故かミュンヘンにはナチス関連のものが多く残されている。ミュンヘンは元々ナチスの中心地であるのにもかかわらず。

簡単に説明すると、ミュンヘンにあった弱小政党、ドイツ労働者党に軍のスパイとしてヒトラーは入党した。そのとき彼はまだドイツ国籍を持っておらず、またチョビ髭もなくて、八の字型の髭スタイルだった。それがあれよあれよという間に党首になってしまった。それから党名も国家社会主義ドイツ労働者党、すなわちナチスにかえられた。ナチスは多くの企業や資産家の援助を得て、また労働者の支持を得て、当時のバイエルンの国民政党になっていった。と同時に、彼の髭スタイルもチョビ髭になっていた。

当時、よく党の会合が行われた場所はホーフブロイハウスというビアホールで現在も営業している。またヒトラーが好んだイタリア料理店オステリア・イタリアーナもまだ営業している。それからナチスが中央で政権を執ってから建てられたナチスの本部は現在、図書館などとして利用されているし、総統官邸も現在はミュンヘン音楽演劇大学として利用されている。それらは爆撃の被害に遭っていない。ミュンヘンのケーニヒ広場周辺にはナチス関連のものが多く残っている。またミュンヘンから少し離れたベルヒテスガーデンの山頂には、ヒトラーが別荘に使っていて、また極秘の会合が行われたイーグルス・ネストという山荘があり、ここは現在、展望レストランとして使用されている。またミュンヘンは、ドイツ、イタリア、イギリス、フランスが勝手にチェコの分割を決定した、いわゆるミュンヘン会談が行われた場所でもある。その他、調べればナチス関係のものがもっとあるに違いない。

ミュンヘンは、ヒトラー及びナチスが成長していった場所であり聖地的な場所でもある。しかし連合国は、ミュンヘンよりもドイツ第3帝国の象徴であった首都ベルリンの破壊を優先させた。ヒトラーをはじめ、帝国の幹部はほとんどベルリンにいた。そうなってくるとミュンヘンは意識の上では聖地であったかもしれないが、戦略的には意味のない場所であった。だからミュンヘンには多くのものが当時のまま残されている。

先日、ミュンヘンの工科大学の学生食堂で食事をした。その窓からはミュンヘン音大をはじめとするケーニヒ広場の建物が見渡せる。そのときは雪が降っていて車の通行も少なかった。何となくその窓から見える景色が1920、30年代とかわらないのでないかと感じた。だから、あの階段をヒトラーが上がったんだろうな、だとか、当時はここにも憲兵が立っていたんだろうなとか考えると、そこのある建物群が非常に重い建物に感じてしまった。音大の建物に入るときも、ここを総統を初めてする人たちが出入りしていたんだろうな、もしかするとここの柱にもたれたりしていたのかもしれない、などと考えると歴史を肌で感じた気がした。歴史の面白さはそういうところにあると思う。別に僕はヒトラーやナチスの礼賛者ではないが、ただ単に年表を覚えるのではなく、そういう面から歴史をたどるのも面白いことだと思う。どの街でもそうだと思うが、ミュンヘンにも歴史を感じることの出来る場所がたくさんある。街自体が歴史である。街にある建物、公園、すべてのものは、何世代にもわたって人を見てきた。その街の記憶に僕もいるかもしれない。街がとても大きなものに感じた。

(2000年1月上旬 ・ 2月1日 、7日写真追加)

ヒトラー総統官邸 ケーニヒ広場にある総統官邸。現在はミュンヘン音楽演劇大学として利用されている。
ヒトラー総統官邸入り口ホール 総統官邸(現ミュンヘン音音楽演劇大学)の入り口ホール。大理石の階段や正面に彫像が見える。
 
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