やまねこの物語

日記 教会でのコンサート

ドイツの他の街については分からないが、ミュンヘンでは市民にとって音楽が非常に身近な存在にある。オペラやコンサートを比較的手頃な値段で観る(聴く)ことが出来、またその演目数も多い。教会でのコンサートもそれは同じである。ミュンヘンにはキリスト教だけでも200以上の教会があり、そのいずれかはその教会所属の合唱団やオーケストラを持ち、それらはミサやコンサートなどで演奏している。教会でのコンサートは特にクリスマス前になると多く催される。

先日、聖マクシミリアン教会であるコンサートがあった。ヴェルディのレクイエムで僕はこの作品を是が非でも聴きたかったので、教会に行くことにした。ただチケットが高かったので、教会から漏れる音を楽しもうとコンサートが始まる午後8時頃、教会に向かった。その時点で教会横にあるチケット売り場は終了していたが、僕はそれを意識せず教会正面入り口の大きなドアを開けた。するとドアは開き、僕はそのまま礼拝堂の中に入れてしまった。ちょうど曲が始まったところで、僕は「入って良いのか?」という複雑な気持ちを持ちながら、そのまま入り口近くのところに立って聴いていた。

この教会は大きいので演奏されている音がウワンウワンとまるでお風呂場で歌っているような感じだった。教会のその構造のせいかよく分からないが、音が自分を包み込んでいるように感じられた。というのは普通、劇場やコンサートホールなどは主に前から音が飛んでくる。もちろん反響などがあると思うが、僕自身には音が前からやって来て、しかもその音と自分の間には空間があるように感じられる。ところが僕が今回聴いたコンサートでは、音が前後上などから聞こえてきて、正確には自分の直ぐ側に音があるといった感じであった。つまり教会そのものが一つの楽器といったところだろうか。

今まで教会でのコンサートを幾つか聴いたが、今回のように感じたことはなかった。もしかするとそれは合唱やオーケストラの編成が大きなヴェルディのレクイエムだったからかも知れない。僕は入り口ドアの横に立って聴いていたが、ドアのガラスが時々、音に反響してビリビリと響いていた。

ところで教会でのコンサートではいつも思うことがある。曲が終わったときに拍手をして良いものかということだ。特にレクイエムの場合、文字通り、死者のための鎮魂歌というなら拍手は場違いかも知れない。今回のコンサートは曲が終わると「ブラヴォー」まで飛んでいた。今回の演奏は「鎮魂歌」というよりレクイエムという「作品」なのかも知れない。

そういえば僕は耳にしたことがないが、ケルビーニのレクイエム(ハ短調)という作品は、フランス・ルイ18世の命を受けて、フランス革命の最中、断頭台で命を落としたルイ16世の冥福を祈るために作曲されたと聞いた。ケルビーニはこの作品の作曲に心血を注ぎ込み、サン・ドニ教会での初演は人々に多くの感銘を与えたらしい。ヴェルディのレクイエムも1874年5月22日ミラノのサン・マルコ教会での初演(指揮はヴェルディ自身)の際、3曲がアンコールされるくらいに大成功だったらしい。演奏が終わったあとは、やはり拍手があったのだろうか。

レクイエム、この単語はラテン語で「平安」「静養」「静けさ」などの意味を持つ「re-quies」からきたようだが、今回のヴェルディのレクイエムの場合、演奏が終わったあと、僕は自分の中に興奮した感情を抱いていた。「静けさ」というより「高揚」だ。僕は結局、約90分の演奏の間(休憩なし)そこから動かずに最後まで聴いてしまった。また終わったあと他の聴衆と同じように拍手をしていた。このとき、拍手は演奏に対するものというより、もしかすると作品、演奏の一部分かも知れないとも考えた。死者に対する、つまり実際自分の側にいない者に対する鎮魂歌、この作品をそこにいる全ての人が演奏することによって、彼ら(死者)を自分の身近に感じ、残された者のそれまでの孤独感を和らげ、それが安定した気持ちを生み「平安」「静けさ」といった感じになるのかも知れない。その場にいない人のことを考えると、少なくとも自分にはそう思われた。

コンサート終了後

コンサート終了後

聖マクシミリアン教会

聖マクシミリアン教会


(2002年11月25日)

 

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