| ところでバンベルクの街は中世の面影を残しているが、三十年戦争(1618-48)では2度(1632年、34年)スウェーデン軍に占領されている。しかしスウェーデン軍はその街をほとんど破壊することはなく、バンベルクはその後も司教都市として存続した。当時から、破壊されるのが惜しまれるほどに美しい街だったのかも知れない。
バンベルクは1802年、バイエルン選帝候領の一部になったが、そこからバイエルンの政治と少なからず関係を持つようになった。先に挙げたギリシャ王オットーの話しもそうである。運河が通り、鉄道(バイエルン国立鉄道)も開通したことにより街は経済的に大きく発展した。そして1919年、第一次世界大戦後にはここにヨハネス・ホフマンによるバイエルン政府(所謂「ホフマン政権」)が置かれた。
第一次世界大戦時の1918年11月8日、バイエルン王国の首都ミュンヘンで革命が起こり、ヴィッテルスバッハ王朝の廃止とバイエルン共和国の成立が宣言された。そして1919年2月21日バイエルン共和国首相が暗殺され、バイエルンが混乱する中、改革派によってミュンヘンにバイエルン・レーテ共和国樹立が宣言される(4月6日)。保守派であるホフマン政府はバンベルクに逃避し(4月7日)、これによってバイエルンは二重政権となり、内戦状態になる。5月1日ヴァイマール共和国政府が武力介入によってミュンヘンを占領し、バイエルン・レーテ共和国は崩壊。軍は同時にバンベルクのホフマン政権をも圧倒するに到ったというものであるが、バンベルクの位置はバイエルン内に大きな影響を与えているミュンヘンから近くもなく、またそう遠くもなく、一歩離れた場所から物事を見るには良い場所であるかも知れない。現在はユネスコの世界文化遺産に指定されるほど美しい街並みを残しているが、バンベルクのそういった地の利を活かした独自性が今後も受け継がれていって欲しい、そんなことを考えながらバンベルクをあとにした。
ところでバンベルクからミュンヘンへ帰るには、途中ニュルンベルクで乗り換えなければならない。その乗り換え時間が約1時間あったので、ニュルンベルクのクリスマスマルクトを覗いた。寒い中でグリューヴァインとニュルンベルガーソーセージを食べて帰ってきた。(2004年12月下旬、バンベルク編完)
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