やまねこの物語

おでかけ ハンガリー・ブダペスト

旅の目的

時期

オペラ鑑賞

2004年12月下旬

 

その時、僕は雑踏の中にいた。電車が到着したホームにはそれほど人がいなかったにもかかわらず、駅構内の地下に降りる階段からは、人の数が急に多く感じられ、それが自分がようやく「街」に入ったことを気付かせた。ブダペスト東駅の、その幅の広い階段にはエスカレーターがなく、また上り下りの区別もなかった。そこには大きな荷物を持った人や先を急ぐ人が無秩序的にひしめき合い、僕は前を歩く友人の姿を追うのが精一杯だった。東駅

前日の夜、午後11時半過ぎにミュンヘン中央駅を出発する夜行に乗り、僕はハンガリーの首都ブダペストにやってきた。夜行と言っても乗ってきた電車は日中走っている車両と全く同じで、座席も「座る」座席であった。しかも一晩中、明かりがついたままであり、また途中に停車するそれぞれの駅では乗降客の姿もあって、電車の中であまり眠ることが出来なかった。ただ電車がミュンヘン=ブダペスト間直通だったのが救いだった。(右の写真は到着した東駅)

しかし電車では寝られなかったにもかかわらず、あまり疲れを感じていなかった。それはこれから始まる旅への楽しみがあるからだろう。また手にしたガイドブックやブダペスト在住の人から観光客を狙った犯罪が多いと耳にしていたので、それに対する緊張感や見知らぬ外国を初めて旅する不安感があったのも、その一つの要因であろう。ちなみに僕が見ていたガイドブックの簡単な会話集には「こんにちは」「ありがとう」よりも先に「助けて!」「気を付けろ!」「止まれ!」と言った言葉が並んでいた。それだけ治安が良くないのだろうか、その本はそう言っているように見えた。

そういった色々な気持ちを抱きながら、僕は人混みの中を分けるように地下鉄の駅を目指して歩いていた。そこは既に「街」の中で、そこでは「タクシー?」と何度も声をかけられることはない。ヨーロッパの駅はホームへの出入りが自由で、この東駅では国際列車が到着したホームで何度も「タクシー?(タクシーが必要か?)」と声をかけられた。こういったホーム上で行われている客引きをドイツ(ミュンヘン)ではほとんど見たことがない。ドイツや日本で、電車から降りてタクシーが必要なら、タクシー乗り場への案内にそって、タクシー乗り場へ行けばいい。ブダペストの東駅でその案内があったか覚えていないが、いずれにしても「街への玄関」であるホームでなされる客を呼ぶ競争は、街が雑然としているという印象を与えた。

ブダペストの街は1873年、ブダとペスト、オーブダ(旧ブダ)の3つの地域が統合されて出来た街だ。街そのものの起源は紀元前14.000年頃まで遡る。かつてブダのドナウ川沿いに集落があった。紀元前10世紀頃にはローマ人がオーブダに植民地を建設。5世紀になるとこの地域全体が、フン族の地となった。そして896年、東からやって来たアジア系民族マジャル人によって現在のハンガリーが建国される。13世紀にはモンゴルの来襲に遭い、それまでの中心地はオーブダからブダに移された。その後ブダは王宮のある地として発展し、15世紀にはブダは中欧におけるルネサンス文化の中心地で、特にオーストリア貴族などカトリック教徒の多い地域となった(一方ペストの方は早い時期から商人が住み、商業地域だった)。しかし16世紀になると勢力拡大を進めるオスマン・トルコによりブダは占領され、その期間は1541年から約150年続いた。

1686年、ハプスブルクを中心とする神聖同盟軍によって、ハンガリーはトルコから解放されたが、同時にハプスブルクの支配下となり、その後はハプスブルクに対する独立運動が繰り広げられた。そして絶対専制主義から啓蒙主義へという時代の変化と共に、ハンガリー内で民族意識が高まり、1867年オーストリアとの間に和解が結ばれ、オーストリア=ハンガリー二重帝国の名の下、外交と軍の統治権を除いて、独立国となった。その首都機能を果たすために1873年、性格の異なる3つの地域が統合され(当時人口30万人、現在約200万人)、新しいハンガリーの首都に相応しく、都市整備が急速に成し遂げられた。

ブダペストを首都とするハンガリーは二つの世界大戦での敗戦(第一次では二重帝国の名の下、オーストリアと同盟で敗北。第二次では三国同盟側につき敗北)のあと、「ハンガリー人民共和国憲法」を採択し、ソ連(当時)の影響が強い社会主義体制の道を歩み出した。しかし1960年代より自由化が徐々に進められ、1989年10月にはそれまで独裁であった社会主義労働者党自身が独裁制を否定し、複数政党制の導入を決めた。憲法改正を経て、国名も人民共和国から共和国へと改められた。そして東欧革命後、1993年には北大西洋条約機構に、2004年には欧州連合に加盟した。

この様にしてみると、マジャル人による現在のブダペストは自身の文化だけでなく、(自分たちの意に反して)トルコ、オーストリア、ソ連の影響を受けているのが分かる。つまり街がそれだけ色々な表情を持っているということだ。

僕が乗っていた電車がオーストリア領内からハンガリー領内に入ったとき、電車の中ではパスポートコントロールなどが行われた。雰囲気的にあまり穏やかではないコントロールが終わり、空が白み始めた窓の外を眺めていたが、それだけ西側の資本が入っているのか、お店の看板などドイツにあるものとそう変わりはなく、もしコントロールがなければ、ハンガリー領内に入ったのも気付かなかったかも知れない。その時は実際にハンガリー領内を電車が走っていたが、自分がハンガリーにいるとは、あまり感じられなかった。電車が着いてホームを出て初めてブダペストの「街」を感じることが出来、そこで僕はようやく「外国」に来たと実感した。

その電車が到着した東駅は西駅、南駅と並んでブダペストにある3つの国際駅の一つである。駅を出て振り返ると、ルネサンス様式の大きな建物が見えた。1884年に建設されたという、44メートルの幅のホールを持つこの駅はヨーロッパの中央駅に位置し、ブダペストの玄関口として堂々とした雰囲気を醸し出していた。

ところでハンガリー共和国は2004年にEU欧州連合に加盟した。それがどれだけ影響しているか分からないが、ホテルのガイドなどを見ているとユーロ支払い可能というところが多い。中にはハンガリーの通貨フォリントでの表示がなく、ユーロだけというものもあった。だから僕はここで大きな勘違いをした。ハンガリー国内でもユーロが使えるのか、ホテルなどユーロとフォリントが記載されているのは、以前のドイツなどのように、現地通貨からユーロへの移行期間中は二つの通貨が使えるのではと。しかし実際そのようなことはなく、ユーロが使えるのはホテルだけのようであり、基本的に通貨はフォリントのみだった(それだけユーロが安定しているのだろうか)。

ただ、部分的にでもユーロが使えるということは、拡大しているEUの中で西側との関係を意識しているのと同時に、ハンガリーが以前までのように「東欧の一部」という位置付けから、「中欧」に変化しているということ表しているのかも知れない。

ハンガリーのイメージを問われると、自分の中には、例えば皇帝マリア・テレジアや皇妃エリーザベト(シシー)、オーストリア=ハンガリー二重帝国などオーストリアとの関連が大きいということと、第二次世界大戦後の社会主義体制などソ連との関係が強かったという二点が挙げられ、前者からは華やかな宮廷のイメージが、後者からは西側諸国から見て「遅れてやって来た」国家というイメージがある。そういった二つの交錯したイメージをハンガリー、ブダペストに対して抱いていた。
 

(おでかけ、ハンガリー・ブダペスト編、写真の一部は友人撮影。写真に関しては、基本的に撮影した順に並んでいますが、例えばこの下で、到着時と翌日の東駅の写真を使っているように、内容によっては順番を無視しているところもあります。また本文等に出てくるハンガリー人名はハンガリーでなされているように「性・名」の順で表記しました。ただ僕はハンガリー語を読めないのでハンガリー語辞典を使い、カタカナにしましたので、本当の発音とは違っているかも知れません。その点はどうぞご了承を。)
 

東駅
東駅

東駅
東駅

 

 

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