やまねこの物語

おでかけ ドイツ・バイロイト

旅の目的

時期

観光

2006年4月中旬

 

    バイロイトは雨だった。まるで我々が来るのを待っていたかのようだった。しかもその雨は優しくなく、時折、石畳を叩く程の雨であった。ルートヴィヒ・マクシミリアン大学で自分と同じくバイエルン史の授業を取っているS氏の運転でバイロイトを訪れた。今回の旅では車の運転だけでなく、宿の手配、旅の計画等、S氏には大変お世話になった(どうもありがとうございます)

    バイロイトと言えば、真っ先に思い浮かぶのがドイツの作曲家リヒャルト・ヴァーグナー(1813-1883)だろう。彼の家、彼の劇場、彼のお墓などがある。S氏による旅の計画表にも、当然組み込まれている。

    そのバイロイトの街はバイエルンの北部オーバーフランケン地方に位置する人口約73.800人の街である(2005年12月、面積は66,92km2)。バイロイトの名が初めて歴史に出てきたのは1194年。ミュンヘンとほぼ同じ時期である(ミュンヘンは1158年)。バンベルク司教オットー2世が残した文書にBaierruteとある(現在はBayreuth)。その名前の由来はおそらく、Baier(バイヤー=バイエルン人)のRodung(ロードゥング=開墾)とされている。当時はまだ村であったが、1231年に初めて市と言及されている(因みにミュンヘンは1214年)。

    バイロイトは1248年までアンデックス伯爵領であったが、その家系が途絶えたとき、ここはホーエンツォレルンの家系の一つであるブルクグラーフ・フォン・ニュルンベルク領の一部になる。バイロイトはその一部に過ぎず、レジデンツなどの中心はバイロイトより少し北の街クルムバッハのプラッセンブルクに置かれた。バイロイトの街は徐々に人口が増え、街は発展していくが同時に歴史の中では様々な被害を被った。1430年、フス派が街を破壊し、そして復旧が進んだ頃の1605年には大火が街を襲い、251軒あった家のうち137軒が焼失した。1620年にはペストが流行し、翌年には更なる大火が街を襲った。

    街の歴史の転換点は1603年、当時この地方を統治していた辺境伯クリスティアン、彼はブランデンブルク選帝候の息子であったが、その彼がレジデンツをそれまでのプラッセンブルクからバイロイトに移したことである。そこからバイロイトはこの地方(辺境伯領)の中心地として発展していく。特に辺境伯フリードリヒ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト(1711-1763)とその妃ヴィルヘルミーネ(1709-1758)が統治していた1735-1763年の間、バイロイトの街はこれまでで最も華やいだ。

    そして1792年にはバイロイトはホーエンツォレルン家が支配するプロイセン王国領の一部になる。しかし1806年に神聖ローマ帝国が崩壊して、かつての辺境伯領はフランス軍の占領下になった。そして皇帝ナポレオンがこの領土を2500万フランでバイエルン王国に売ろうとする。結果的にバイエルンは1500万フランでバイロイトを購入し、1810年2月28日のパリ条約によって、バイロイトは正式にバイエルン王国の一部になった。これまでプロイセン系が支配していたバイロイトがバイエルンになり、その数十年後に作曲家リヒャルト・ヴァーグナーがこの地に住むようになった。それ以後、バイロイトはヴァーグナーの街として世界的に知られるようになる。

     

    S氏の運転する車でバイロイトには予定通り、お昼過ぎに到着した。遠くに祝祭劇場が見え、自分の気持ちも少し高揚していた。そういえばバイロイトの街の入り口には「大学都市バイロイト」の看板があって、ちょうど車で走っていた場所からもそう遠くないので、一度大学を見てみることにした。大学の敷地には背の低い校舎が幾つか建っていて、どれも新しい建築だ。調べてみると、この大学は1975年に新設されたということ。また1742年にバイロイトに大学が設立されたが、現在それはニュルンベルクの北、エアランゲンに移転したということ。

    車から大学を見た後、ホテルに荷物を置きに行くことにした。しかしそのホテルの場所が見つからない。ホテルの住所をカーナビの目的地に入れても見つからなかった。ホテルの住所にはもう一つ大きな通りの名が併記されてあったので、おそらくそのホテルは二つの通りの角にあるのだろう。そう考えてその大きな通りを走ったが、いつの間にかバイロイトの街を出てしまっていた。結局、現地の人に伺って何とかホテルにたどり着けたが、そのホテルのある通りは、「通り」というよりも駐車場で、しかも坂道になっているので、その場所に通りの名前があるとは思いもしなかった。

    ホテルに荷物を置いて、昼食を食べようとしたが、多くの店が既に(昼食と夕食の間の)中休みに入っていて、閉まっていた。何処でも良いといった感じで旧市街地方面に向かって歩いていると、まだ外に「お昼のメニュー」と書かれた看板の出ているお店があったので、そのお店に入ってみることにした。薄暗く狭い店内には、二組の人達がいた。ひと組は4、5人で一つのテーブルを囲ってビールを飲んでいる。もう一組は、先の組に背を向けるようにして、男性(おじさん)が一人でケーキを食べていた。こののんびりとした空気は復活祭の休暇が近いせいだろうか。そして誰にともなしに、まだ昼食を食べられるか伺ってみた。そうすると一人でケーキを食べていた男性が、大丈夫と言ってメニューを持ってきてくれた。どうやらこの人がお店の人のようだ。

    その男性にメニューを注文した。自分はシュニッツェル(カツレツ)を頼んだのが、厨房の方で肉を叩いている音がする。他にお店の人がいる気配もなく、先程の男性の姿も見えないので、彼が料理も作っているのだろう。暫くすると料理が運ばれてきたが、運んできた人はやはり先程の人であった。彼はエプロン姿だった。食事をしながら、食後の計画を確認した。この日の第一の目的はヴァーンフリート荘に向かうこと。ヴァーグナーの家である。

    食べ終わって直ぐに勘定を済ませて、席を立とうとすると「もう行ってしまうのか」とお店の人から声をかけられた。そう言われると何となく申し訳ない気もしたが、ヴァーンフリート荘までの行き方を聞き、お店を後にした。ヴァーンフリート荘へは旧市街地をまっすぐ行けば簡単に見つけられる。迷うことはないと言うこと。

泊まったホテル
泊まったホテル

泊まったホテルの部屋
泊まったホテルの部屋

泊まったホテルの部屋からの眺め
泊まったホテルの部屋からの眺め

泊まったホテルにあったヴァーグナー
泊まったホテルにあったヴァーグナー

マイゼルビール醸造所
マイゼルビール醸造所
1887年操業開始。
ビール博物館があり、そちらは世界最大規模。
ホテルの近くにあって行ってみたが、聖金曜日のため
残念ながら休館だった。

ホテル近くの景色
ホテル近くの景色
ミステルバッハという小川。


 

お昼を頂いたお店
お昼を頂いたお店

昼食
昼食

    ヴァーンフリート荘に向かって歩きだした。そういえばS氏が聞いたところによると、復活祭前のフランケン地方では街にある噴水がタマゴなどで飾られると言うこと。その間、水は出ているのだろうか。そんなことを話していた。すると旧市街地に入って直ぐに、色とりどりのタマゴで飾られた噴水があった。同じバイエルンでもミュンヘンでは見られないので、非常に面白く感じられる。街中の人目に付くところにこういった飾られた噴水があると、復活祭をより意識出来るかも知れない。噴水に近づいてみると水が出ている。飾られているので、おそらく水は出ていないと思っていたので驚いた。しかし雨の日もあるので、水が出ていてもおかしくはない。他の噴水も同様に飾られているかと思ったが、目にした限りでは、飾られている噴水は他に見あたらなかった。

ネプチューン噴水
ネプチューン噴水
 1755年、ヨハン・ガブリエル・レンツによって制作された。

飾られた噴水
飾られた噴水

マクシミリアン通り
マクシミリアン通り
かつてはここで市が開かれていた。

街の標識
街の標識
市内の案内だけでなく、姉妹都市の方向と距離も示している。

マクシミリアン通り
マクシミリアン通り
 奥に見えるのはシュピタール教会。
 

モーレン薬局
モーレン薬局
 現存する市最古の薬局。1610年、ミヒャエル・メバルトによって
建てられた。出窓はルネサンス様式。

ヘルクレス噴水
ヘルクレス噴水
1676年、エリアス・ゲデレルス設計の元、
ゲオルク・ヴィーシャックによって制作された。

ヘルクレス噴水
ヘルクレス噴水

マックス・シュティルナーの家
マックス・シュティルナーの家

マックス・シュティルナーの碑
マックス・シュティルナーの碑
ドイツの哲学家で青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の一人である
マックス・シュティルナー(1806-1856)が生まれた家。

第6バイエルン軽騎兵連隊記念碑
第6バイエルン軽騎兵連隊記念碑
ハンス・ライシンガーによって制作された。

街中にあった紋章
街中にあった紋章

シュピタール教会
シュピタール教会
1748-50年、宮廷建築家ジョセフ・サン=ピエール設計の元、
ルドルフ・ハインリヒ・リヒターによって建てられた。
切り妻の装飾はヨハン・ガブリエル・レンツ作。

シュピタール教会礼拝堂
シュピタール教会礼拝堂
フランケン地方でよく見られる、説教壇祭壇。
プロテスタントの教会。
 

 

 

進む

menu
「おでかけ」のトップに戻る