おでかけ ドイツ・バイロイト |
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お昼を頂いたお店の男性が言った通り、ヴァーンフリート荘は旧市街地をまっすぐ行けば簡単に見つかった。想像では森の中に家があるのかと思っていたが、旧市街地からもそう遠くなく、街中といった印象を受けた。 ヴァーンフリート荘の前にある並木道が、訪れたときは葉がなかったものの、時期によってはより美しい姿を見せているに違いない。そしてその奥にあるヴァーンフリート荘の明るく、暖色系の建物とのコントラストも、ヴァーグナーの家に相応しい落ち着いた雰囲気を演出していることだろう。 ヴァーンフリート荘は1873/74年にバイエルン王ルートヴィヒ2世(1845-1886)の援助を受けて、ヴァーグナー自身が設計に携わり、ヴィルヘルム・ノイマンによってネオルネサンス様式で建てられた。しかし当初はヴァーグナーの注文が多く、建設工事も順調にはいかず、ヴァーグナーは冗談でこれを「怒りの家」と名付けた。晩年ヴァーグナーとコジマ(1837-1930)が生活したこの建物は、ヴァーグナーがチューリヒで滞在していたヴェーゼンドンク邸をモデルにしたともされている。 そしてその「Haus Wahnfried ヴァーンフリート荘」という名称は、ヴァーグナー自身がファサードにはめ込んだプレートの「私のヴァーン(希望、妄想と言った感情)がフリート(平和)を見出すこの館に、ヴァーンフリートの名を与える」に由来している。コジマが自身の日記の中で「(リヒャルト・ヴァーグナーにとって)ヴァーンフリート荘が文字通りヴァーンフリートになることを望む」と言うようなことを書いているが、リヒャルト・ヴァーグナーが長年亡命生活をして、ここに安住の地を求めたことなどを考えると、このヴァーンフリートという意味は「世間的な妄想からの解放」や、またここが芸術を作り上げるための場所と言うことを意識すると「芸術的な感覚の落ち着き」といったことを意味するかも知れない。 ここにはコジマの父リストやブルックナー、フンパーディンクなど多くの音楽家が訪れ、ここは芸術家サロンであった。1945年の空襲で3分の1が破壊されるが、1973年にヴァーグナー家からバイロイト市に寄贈され、翌年74年から修復が始まり、1976年7月24日、リヒャルト・ヴァーグナー博物館として一般公開された。
ヴァーンフリート荘への扉の前に立った。入り口扉にある装飾が目を惹く。ここがヴァーグナー自身が出入りしていた入り口だ。しかし何故かそう言った感動を味わうことなく、扉を開けた。思った以上に軽い扉だ。中に入ると直ぐそこにはチケット売り場がある。チケットを購入した際、写真撮影に関して伺うと、館内で撮影して良いのは入り部分、それに続くホール、そしてかつての居住空間であったザール(広間)だけと言うこと。少し残念に思いながら館内を回った。館内には「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の前奏曲が繰り返し流れていた。 ホールやザールに置かれたピアノ、本棚が当時の生活感を表している気がしたが、それ以外に当時の家具などはなく、「ヴァーグナーの家」ではなく、文字通り「リヒャルト・ヴァーグナー博物館」となっていた。しかしそこには彼に関する多くのものが展示されている。細かく書かれた直筆の楽譜や身につけていた衣装など。またヴァーグナーがヴェネツィア滞在中に亡くなったソファも展示されてあった。表面がすり切れた古いものだったが、死後20時間に渡って、コジマはヴァーグナーの亡骸を胸から離さなかったという話を思い出すと、その古びたソファさえも魂を持ったものに感じられる。 それ以外にバイロイト音楽祭に関する展示も多く見られた。この中で個人的に印象に残ったのは大きな黒縁眼鏡をかけているバイエルン州首相シュトイバーの写真だった。また館内には幾つもの肖像画があったが、その多くがフランツ・フォン・レンバッハ(1836-1904)によるものだった。こうやって博物館を見ていると、一人の人物が持つ歴史的意味を考えさせられる。外から見たヴァーンフリート荘はそれほど大きくないという印象を感じていたが、博物館の展示を見ながら回っていると、時が経つのも忘れ、一時間以上そこにいた。
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