やまねこの物語

おでかけ ドイツ・バイロイト

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2006年4月中旬

 

    お昼を頂いたお店の男性が言った通り、ヴァーンフリート荘は旧市街地をまっすぐ行けば簡単に見つかった。想像では森の中に家があるのかと思っていたが、旧市街地からもそう遠くなく、街中といった印象を受けた。

    ヴァーンフリート荘の前にある並木道が、訪れたときは葉がなかったものの、時期によってはより美しい姿を見せているに違いない。そしてその奥にあるヴァーンフリート荘の明るく、暖色系の建物とのコントラストも、ヴァーグナーの家に相応しい落ち着いた雰囲気を演出していることだろう。

    ヴァーンフリート荘は1873/74年にバイエルン王ルートヴィヒ2世(1845-1886)の援助を受けて、ヴァーグナー自身が設計に携わり、ヴィルヘルム・ノイマンによってネオルネサンス様式で建てられた。しかし当初はヴァーグナーの注文が多く、建設工事も順調にはいかず、ヴァーグナーは冗談でこれを「怒りの家」と名付けた。晩年ヴァーグナーとコジマ(1837-1930)が生活したこの建物は、ヴァーグナーがチューリヒで滞在していたヴェーゼンドンク邸をモデルにしたともされている。

    そしてその「Haus Wahnfried ヴァーンフリート荘」という名称は、ヴァーグナー自身がファサードにはめ込んだプレートの「私のヴァーン(希望、妄想と言った感情)がフリート(平和)を見出すこの館に、ヴァーンフリートの名を与える」に由来している。コジマが自身の日記の中で「(リヒャルト・ヴァーグナーにとって)ヴァーンフリート荘が文字通りヴァーンフリートになることを望む」と言うようなことを書いているが、リヒャルト・ヴァーグナーが長年亡命生活をして、ここに安住の地を求めたことなどを考えると、このヴァーンフリートという意味は「世間的な妄想からの解放」や、またここが芸術を作り上げるための場所と言うことを意識すると「芸術的な感覚の落ち着き」といったことを意味するかも知れない。

    ここにはコジマの父リストやブルックナー、フンパーディンクなど多くの音楽家が訪れ、ここは芸術家サロンであった。1945年の空襲で3分の1が破壊されるが、1973年にヴァーグナー家からバイロイト市に寄贈され、翌年74年から修復が始まり、1976年7月24日、リヒャルト・ヴァーグナー博物館として一般公開された。

リヒャルト・ヴァーグナー通りの標識
リヒャルト・ヴァーグナー通りの標識

博物館への標識
博物館への標識

ヴァーンフリート荘の表札
ヴァーンフリート荘の表札

ヴァーンフリート荘を望む
ヴァーンフリート荘を望む

ヴァーンフリート荘
ヴァーンフリート荘

入り口上にあるスグラフィット絵画
入り口上にあるスグラフィット絵画
ロベルト・クラウセ作。
このスグラフィット絵画はコジマのアイデアとされる。
左よりギリシャ悲劇(ヴィルヘルミーネ・シュレーダー=デフリエント)、
ゲルマン神話で放浪者の姿をしたヴォータン
(ルートヴィヒ・シュノール・フォン・カロルスフェルト)、
「未来の芸術作品」の寓意(ヴァーグナーの息子ジークフリート)、
音楽(コジマ)を表現している。

ヴァーンフリート荘
ヴァーンフリート荘
 

バイエルン王ルートヴィヒ2世像
バイエルン王ルートヴィヒ2世像
カスパー・ツンブッシュ作。王の像を制作するのはコジマの案。

ヴァーンフリート荘入り口
ヴァーンフリート荘入り口

入り口装飾
入り口装飾

王ルートヴィヒ2世像を背中にして
王ルートヴィヒ2世像を背中にして

 

    ヴァーンフリート荘への扉の前に立った。入り口扉にある装飾が目を惹く。ここがヴァーグナー自身が出入りしていた入り口だ。しかし何故かそう言った感動を味わうことなく、扉を開けた。思った以上に軽い扉だ。中に入ると直ぐそこにはチケット売り場がある。チケットを購入した際、写真撮影に関して伺うと、館内で撮影して良いのは入り部分、それに続くホール、そしてかつての居住空間であったザール(広間)だけと言うこと。少し残念に思いながら館内を回った。館内には「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の前奏曲が繰り返し流れていた。

    ホールやザールに置かれたピアノ、本棚が当時の生活感を表している気がしたが、それ以外に当時の家具などはなく、「ヴァーグナーの家」ではなく、文字通り「リヒャルト・ヴァーグナー博物館」となっていた。しかしそこには彼に関する多くのものが展示されている。細かく書かれた直筆の楽譜や身につけていた衣装など。またヴァーグナーがヴェネツィア滞在中に亡くなったソファも展示されてあった。表面がすり切れた古いものだったが、死後20時間に渡って、コジマはヴァーグナーの亡骸を胸から離さなかったという話を思い出すと、その古びたソファさえも魂を持ったものに感じられる。

    それ以外にバイロイト音楽祭に関する展示も多く見られた。この中で個人的に印象に残ったのは大きな黒縁眼鏡をかけているバイエルン州首相シュトイバーの写真だった。また館内には幾つもの肖像画があったが、その多くがフランツ・フォン・レンバッハ(1836-1904)によるものだった。こうやって博物館を見ていると、一人の人物が持つ歴史的意味を考えさせられる。外から見たヴァーンフリート荘はそれほど大きくないという印象を感じていたが、博物館の展示を見ながら回っていると、時が経つのも忘れ、一時間以上そこにいた。

入り口内側から
入り口内側から
左がチケット売り場。ステンドグラスは左がヴァーグナーと義父の
名前を表現しているスバル。右はルツェルン・トリプシェンの紋章。

ホールの上部装飾
ホールの上部装飾

バイエルン王ルートヴィヒ2世像
バイエルン王ルートヴィヒ2世像
カスパー・ツンブッシュ作。

リヒャルト・ヴァーグナー像
リヒャルト・ヴァーグナー像
グスタフ・アドルフ・キーツ作。

ピアノ
ピアノ
ベヒシュタイン社製のピアノ。1864年、王ルートヴィヒ2世が
ヴァーグナーの誕生日に贈ったもの。また机としても利用された。
このピアノで「マイスタージンガー」「ジークフリート」の3幕、
「神々の黄昏」「パルジファル」が作曲された。

ピアノ
ピアノ
1843-1858年まで使用していたピアノ。
これで「タンホイザー」から「トリスタンとイゾルデ」までの作品が
生まれた。
 

ホール
ホール
1874-1930年の間、バイロイト音楽祭の練習(プローベ)が
この部屋でなされた。
また家族のパーティーやクリスマスなどもここで祝われた。
そして「パルジファル」の前奏曲がここで世界初演された。

ザール
ザール
ヴァーグナー一家の居住空間、音楽ホール、ヴァーグナーの
二つ目の仕事部屋として利用された。
ヴァーグナーやコジマ、リストの肖像画がある。
 

ピアノ
ピアノ
シュタインウェイ社から第一回バイロイト音楽祭の際に贈られたもの。
リストもこのピアノを演奏した。

ザールのシャンデリア
ザールのシャンデリア
玄関扉の装飾と同じデザイン。

本棚
本棚
2.310冊の本がある。ロレンツ・ゲドン作の本棚。

ザールからの眺め
ザールからの眺め
 

ヴァーンフリート荘からの眺め
ヴァーンフリート荘からの眺め

リヒャルト・ヴァーグナーとコジマの墓
リヒャルト・ヴァーグナーとコジマの墓
リヒャルト・ヴァーグナーは存命中にお墓の建設についても
考えていた。1882年2月13日、ヴェネツィアで亡くなった
ヴァーグナーの遺骸は、2月16日、ゴンドラに乗せられて
ヴェネツィアを出て、ヴェローナから特別列車で17日深夜、
バイロイトに到着。18日、市内を回った後にヴァーンフリート荘の
裏手に埋葬された。埋葬は祈りの言葉だけで、静かに簡単に
執り行われた。墓石も大きな御影石だけである。

リヒャルト・ヴァーグナーとコジマの墓
リヒャルト・ヴァーグナーとコジマの墓

リヒャルト・ヴァーグナーとコジマの墓
リヒャルト・ヴァーグナーとコジマの墓

愛犬ルスの墓
愛犬ルスの墓
 

温室跡
温室跡
ここにあった温室はコジマにとって特にお気に入りの場所であった。

ヴァーンフリート荘
ヴァーンフリート荘
庭側からの眺め。道の右側にはかつて「夏のパヴィリオン」と
呼ばれた建物があった。ヴァーグナーとコジマはそこで休憩したり、
また本を読んだりと時間を過ごした。時には朝食も
そこで取っていた。

 

ジークフリートハウス
ジークフリートハウス
元々ここにあった建物を1878年、リヒャルト・ヴァーグナーが
息子ジークフリートとその教育者の住居にするために
建て替えさせた。この建物はヴァーンフリート荘を
訪れたゲストのためにも利用され、トスカニーニ、
リヒャルト・シュトラウス、アドルフ・ヒトラーなどがここに滞在した。
現在はヴァーグナー財団の元、資料館などとして利用されている。

庭師の家
庭師の家
女中などが住んでいた。現在はリヒャルト・ヴァーグナー博物館の
管理人が住んでいる。

ホーフガルテンからの入り口
ホーフガルテンからの入り口
ヴァーンフリート荘の裏側はホーフガルテン(宮廷庭園)に
繋がっている。
 

 

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