おでかけ ドイツ・バイロイト |
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ヴァーンフリート荘を見終わったとき、時計の針は既に午後5時近くになっており、他の博物館に行くのを諦め、旧市街地に戻ることにした。この頃になると雨も強くなってきた。辺境伯歌劇場に行って、雨の中、外からの写真を撮っていると、劇場への入り口がまだ開いていることに気が付いた。案内板をみてみると、まだ内部拝観出来る時間だったので、中に入ることにした。チケット売り場で伺うと、ここではフュールング(グループでの案内)ということ。そして歌劇場(客席)の中で待っていてくださいとあった。 チケット売り場から歌劇場の間には小さな空間があるだけで、そこには一つの入り口があった。そして横には写真撮影禁止のマークがある。残念に思いながら、その入り口をくぐった。その中は薄暗かった。そこが既に歌劇場の客席部分(パルケット)で、その薄暗い中に非常に派手な歌劇場が浮かび上がっていた。規模的にはミュンヘンのクヴィリエ劇場と同じくらいか、それよりも少し大きいかといった感じだ。クヴィリエ劇場はロココ様式で白、赤、金といった色遣いで明るく上品なのに対し、この辺境伯歌劇場は木造のバロック様式で青、茶、金と暗い。そして華やかさと言うよりは派手さが感じられる。もちろん照明の効果、影響があったかも知れないが。 この辺境伯歌劇場は1744-48年、辺境伯フリードリヒ(1711-1763)の妃ヴィルヘルミーネ(1709-1758)の命で、ジョセフ・サン=ピエールによって建てられた。この辺境伯夫妻の統治時代にバイロイトの街は最も華やいだ。ヴィルヘルミーネはプロイセンのフリードリヒ大王の姉で、弟同様に音楽を愛し、新宮殿(ノイエス・シュロッス)内にも専用の音楽室を持っていただけでなく、自身も1740年にオペラ「アルジェノーレ」を作曲している。その彼女の命で建てられた辺境伯歌劇場は、ミュンヘンやドレスデン、マンハイム、ベルリンなどの宮廷に負けないようなものが要求された。そして建設されたその歌劇場はヨーロッパで最も美しい後期バロック様式の歌劇場とされている。その内装はジュゼッペ・ガッリ=ビビエナが手がけた。 1748年9月23日から数日間続いた公女エリーザベト・フリーデリケ・ゾフィと大公カール2世・オイゲン・フォン・ヴュルテンベルクの結婚式で、こけら落としが行われた。奥行き27メートルある舞台は、1871年までドイツ最大の舞台だった。その1871年4月19日、ヴァーグナーとコジマがこの歌劇場を見学に来ている。ヴァーグナーは詩と劇と音楽の合一する作品を意識しており、同時にその上演のための歌劇場を探していた。コジマの日記には次のようにある。「それは18世紀にドイツの技術を尽くして建築した素晴らしい記念的建築で、華麗な装飾や外観など幻想的であったが、それは16世紀的なドイツの劇場建築を継承したに過ぎず、私たちの考えを満足させるものではなかった。」この劇場は「ニーベルングの指環」を上演するには、まずオケピットが狭すぎた。 突然、自分が座っている客席の照明が落ち、辺りは真っ暗になった。すると後方からスポットライトが緞帳に当てられた。どうやらフュールングの始まりのようである。フュールングと言うから、自分は劇場案内、例えば観客席や舞台などを回るものだと思っていたが、そうではなくて、観客席に座ったままスピーカーからの話しを聞くだけのものであった。それは辺境伯フリードリヒとヴィルヘルミーネの会話のようになされ、その話しの中で例えば観客席や天井にスポットライトが当てられると言ったものだった。約25分くらいだろうか。歌劇場の説明と言うよりは、歌劇場を建てるに当たってという感じだった。 ところでこの辺境伯歌劇場は現在、ドイツ連邦政府によりユネスコの世界文化遺産に推薦されている。世界文化遺産として登録されれば、更に多くの人が訪れるだろう。自分が訪れたとき、そのフュールングの時に観客席に座っていたのは10人もいなかった。時間が遅かったというのもあるが、派手な歌劇場には似つかわしくなく、何処か寂しい空間だった。
ミュールバッハテラスの辺りを歩いてみると、街が綺麗に整備されているのが分かる。小川や坂(階段)のある街並み、こういった風景はミュンヘンではあまり見られないので、非常に新鮮に感じられる。もしかするとヴァーグナーもこういった風景を気に入ったのかも知れない。
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