おでかけ ドイツ・クルムバッハ |
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クルムバッハの街がこれほど落ち着いた街だとは思わなかった。自分と同じくルートヴィヒ・マクシミリアン大学でバイエルン史を勉強するS氏の運転する車でクルムバッハを訪れた(この旅ではS氏に大変お世話になり感謝)。午前中にクルムバッハに到着したが雨上がりの天候のためか少し霧がかかり、街がより幻想的に見えた。 クルムバッハの街はバイエルン北部、バイロイトの北に位置する人口約29.600人(2005年2月)の街である(面積92,77km2)。街の歴史は900年頃に遡る。この頃ここで人が生活していたという記録が残っている。その場所はシュヴァインフルト伯爵領となり、クルマ Kulma として修道士アルクィン(735年頃-804)の文書に記載されている。そして山の上から流れ落ちてくる小川(バッハ)からクルミンアッハ Kulmin-aha という街の名前が出来た。 1057年、領主の結婚などによってこの地はディーセン・アンデックス伯爵領となり、1135年には市場の権利が認められ村から市に昇格した。同時に山の上にプラッセンブルク要塞(プラッセンブルク城)の原形が確認されている。その後幾つかの継承問題などがあり、1340年にクルムバッハはホーエンツォレルン系のブルクグラーフ・フォン・ニュルンベルク家の領土となる。これは1417年以降、ブランデンブルク・クルムバッハ辺境伯となる家系である。この家系の下、クルムバッハは辺境伯領の中心地として大きく発展する。1361年には神聖ローマ帝国皇帝カール4世によって独自の貨幣を鋳造する特権を認められ、1363年には帝国公爵の地位に格上げされる。そして1528年、この辺境伯領全域にプロテスタントが導入される。 しかし1603年、辺境伯クリスティアンによって辺境伯の居城(レジデンツ)がバイロイトに移される。その後数回、一時的にクルムバッハに中心が戻ることはあったが、山の上に居城を構えるのは既に時代遅れで、絶対王制に相応しくないという理由で、1642年、正式に政治の中心はバイロイトへ移され、クルムバッハは政治的な存在理由を失った。
車をホルツマルクト(という名の広場、ホルツ=木、マルクト=市場)の側に止めた。フランケン地方で復活祭前に見られる、タマゴで飾られた噴水があった。そして人で賑わう道を歩いていくとマルクト広場に出た。週末だからか市が開かれている。様々な野菜や花が売られている広場の中央にはルイトポルトの泉があって、それも先の噴水同様にタマゴで飾られていた。こういった色とりどりのタマゴで飾られた噴水は街に彩りをもたらし、石畳の街並みが何処か華やいだものになる。 そのマルクト広場で外観が一際目立つ建物がある。クルムバッハの市庁舎だ。最初の市庁舎は1500-1530年に建てられたが、火災の影響などによって幾度か建て替えられ、そして1752年、ハンス・ゲオルク・ホフマンとヨハン・マテウス・グレーフによって再建されたものが現在の市庁舎である。ロココ様式の外観は宮廷建築家ジョセフ・サン=ピエールによるもの。時計の横にある彫像は賢明さと公正を表している。そして入り口には二つの「尺度」が取り付けられている。左はクルムバッハの足の大きさ(29cm)、右はクルムバッハの尺度(エレ、昔の長さの単位、83cm)を表している。こういった尺度がどのように使われていたか想像すると、何か当時の喧噪などが聞こえてきそうである。
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