おでかけ ドイツ・クルムバッハ |
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緩やかな坂道を登っていくと左手に大きな屋根が印象的なペトリ教会が見える。1439年のフス派の侵攻後、後期ゴシック様式で教会が再建されたが、現在の教会はネオゴシック様式で1778-80年に再建されたプロテスタントの教会である。礼拝堂は窓が大きいにもかかわらず、雨の天候のせいか礼拝堂の中は薄暗かった。そして中には他に誰もいなくて、ひっそりとした冷たい空間がそこには拡がっていた。
クルムバッハの山の上に建つプラッセンブルク城は1135年にその原形が確認されている。1230-1250年に制作されたとされるエプストルファーの世界地図(ヨーロッパ、アジア、アフリカが描かれている)にはドイツの35の都市の一つとしてプラッセンブルクも描かれており、この城が当時から知れ渡っていたことが分かる。その後、1340年にブルクグラーフ・フォン・ニュルンベルク家がここに入ってから、ホーエンツォレルン家がここを治めるようになり、幾度も改築がなされ、当時ドイツで最も強固な城郭施設と言われるまでになり、プロテスタント側に立った三十年戦争時では、ここでヴァレンシュタインの軍に抵抗した。 しかし辺境伯領の中心がクルムバッハからバイロイトに移った1603年以降は政治的な意味合いを失い、1806年にはここを占領したナポレオンによって破壊命令が出され一部が取り壊された。1810年、この地方がバイエルン王国領になると、ここは軍事病院並びに戦争捕虜収容所、刑務所として利用されるようになった。
116メートルの山の上に建つプラッセンブルク城への道は非常に急な坂道で、いつの時代でも、もしここを居城として使うなら、たとえ乗り物があったとしても困難な道だったに違いない。雨上がりで少し肌寒く感じていたにもかかわらず、坂を上っていると体が非常に熱くなってきた。城までの距離はそう長くない。しかし坂がきつい。道の横には幾つもベンチが設けられてあった。 プラッセンブルク城の門をくぐると、そこは建物に囲まれたカゼルネンホーフという一角だった。辞書には営庭とあるが、つまり兵舎のある中庭ということだ。ここで一番目を惹くのは、クリスティアン塔と呼ばれる、建物への入り口だ。 これは1607年、辺境伯クリスティアンがニュルンベルクのハンス・ヴェルナーに制作させたものであるが、マニエリスム(ルネサンスからバロックへの過渡期の誇張に満ちた芸術様式)の装飾から当時の繁栄さを窺い知ることが出来る。そして同時にそこにあるコケさえも歴史を感じさせる。
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