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おでかけ ドイツ・ニュルンベルク〜アウグスブルク |
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職人広場は狭い路地と幾つかのお店からなるが、雪で濡れた石畳が落ち着いた雰囲気を演出していた。細い路地を冷たい風が通りすぎる。その風に背中を押されたというわけではないが、足早に職人広場を通り過ぎた。そして気が付けばアウグスブルクへ向かう電車の時間が近づいていた。
ニュルンベルクからアウグスブルクへは約2時間程で移動出来る。クリスマスマルクトが行われている街中を歩いた。気温は氷点下になっており、風も冷たかったが、クリスマスマルクトは多くの人で賑わっていた。ミュンヘンとアウグスブルクはそう遠くなく、隣の大都市といった印象があるが、ミュンヘンとアウグスブルクではクリスマスマルクトの飾り付けや雰囲気なども少し違っていて面白く感じられる。オーバーバイエルンとシュヴァーベンの違いだろうか。
1450年頃、ドイツ初のマイスタージンガー(職匠歌手)学校がアウグスブルクに出来、この街はドイツにおける音楽の中心地の一つになった。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)の父レオポルト・モーツァルト(1719-1787)はこの街に生まれ育ち、ヴォルフガング自身もこの街で何度もコンサートをするなど、アウグスブルクはモーツァルトの街とも言われる。またモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」も1787年、プラハで初演された同じ年(1787年)にここでも上演されるなどモーツァルト縁の街となっている。 その日、アウグスブルク市立劇場ではモーツァルトではなくて、ドニゼッティのオペラ「Maria Stuarda(Maria Stuart)」が上演されるというので、ニュルンベルクからの帰り、アウグスブルクへ立ち寄った。アウグスブルク市立劇場の外観はネオルネサンス様式の非常に重厚な作りになっているのがライトアップされた中でも分かったが、扉を開け建物の中に入ってみると、まるで映画館の入り口のようだったのが驚きだった。上階に上がるとブレヒト像がある。劇作家、詩人、演出家であるベルトルト・ブレヒト(1898-1956)はこの街の出身である。彼の銅像があるのを見ると、この劇場はオペラだけでなく演劇にも力を入れているのが分かる。 中を歩いていると、「劇場の歴史」のようなコーナーがあって、そこに以前の劇場の姿があったが、1877年にこけら落としを向かえた劇場は1.400人収容の大きな劇場で、しかもアウグスブルクが商業都市と言うことを物語っているのか豪華な作りとなっていた。劇場は第三帝国下で一部改装され、再こけら落としがヒトラー出席のもと行われた。このときの演目はヴァーグナー「ローエングリン」であった。しかし第二次世界大戦の空襲で被害を受け、再建には5年の年月を費やし、再々こけら落としとして1956年、モーツァルト「フィガロの結婚」が上演された。 オペラ「Maria Stuarda」が始まったとき、客席を見てみると975席あるというその座席の約3分の2ほど人が入っているといった感じだろうか。空席が目立っているのは残念である。この作品はシラー(1759-1805)の同名作品(1800年)であるが、オペラの演出は舞台上にほとんど何もなく、観るものに想像力を要求する作品となっていた。スコットランド女王とイングランド女王は単なる色違いの衣装に身を包んでいるだけで、何か将棋やチェスの駒といった印象を受けた。それ故、歌手は「歌っている」というより「歌わされている」といった印象を受けた。しかし最後は客席から多くの「ブラヴォー」が聞こえ、盛り上がった公演だった。観客の方でも満足そうな表情をした人が多い。
アウグスブルクからミュンヘンへ向かう電車は出発時間は予定通りだったものの、工事の影響か途中何度も停車し、予定よりも随分遅くミュンヘンに着いた。電車が途中で止まったとき、窓の外を見ると、遠くの方に車の明かりが見えるだけで、ほとんど真っ暗な景色だった。ふと、ニュルンベルクで見た第600号法廷が頭に思い浮かんだ。ニュルンベルク軍事裁判は過去のものではない。現代の我々は切実にその内容を受け取り、それを活かすべく努力をしなければならないと言うことが改めて思い起こされた。(2005年12月末ニュルンベルク〜アウグスブルク編完) |
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