やまねこの物語

おでかけ ドイツ・ニュルンベルク〜アウグスブルク

旅の目的

時期

観光とオペラ鑑賞

2005年12月末

 

    1946年10月17日早朝、アメリカ軍のトラックがミュンヘンのとある火葬場に到着した。彼らの積み荷は12の棺であったが、そのうち二つは空であった。それは病院で亡くなったアメリカ軍兵士の遺体とされ、アメリカ軍将校の監視の元、火葬されると言うことだった。しかし実際はアメリカ軍兵士ではなく、その前日にニュルンベルクで処刑された主要戦争犯罪人9人とその直前に自殺した1人の棺であった。空の棺はカモフラージュとして使われていた。犯罪人9人とは以下の人物である。外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロープ、ドイツ国防軍参謀総長ヴィルヘルム・カイテル、国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナー、東方占領地域大臣アルフレート・ローゼンベルク、ポーランド総督ハンス・フランク、内務大臣ヴィルヘルム・フリック、反ユダヤ主義新聞「デア・シュトュルマー」発行者ユリウス・シュトライヒャー、テューリンゲンのガウライターであったフリッツ・ザウケル、陸軍大将アルフレート・ヨードル、オランダ行政長官アルトュール・ザイス=インクヴァルト。そして10人目の棺は、10月15日の処刑の前に自殺をしたドイツ国家元帥ヘルマン・ゲーリングのものであった。またその後の死者礼拝を防ぐために、アメリカ軍は彼らの遺灰をイザール川に撒くように命じた。

    これらはニュルンベルク軍事裁判によって死刑判決を受けた人物である。ニュルンベルク軍事裁判は第二次世界大戦における第三帝国の戦争犯罪を裁くべく行われた国際軍事裁判で、1945年11月20日から1946年10月1日まで、バイエルンのニュルンベルクで開かれた。ニュルンベルクは第三帝国時代にナチスの党大会開催都市になっただけでなく、ユダヤ人の市民権を剥奪する法、所謂ニュルンベルク法が公布された街で、ナチスを象徴する街であった。しかしこれだけで国際裁判の場所として選ばれたのではない。というのは第二次世界大戦後のニュルンベルクには裁判所及び刑務所と裁判関係者が宿泊する場所、つまりグランドホテルが戦禍を免れたというのがある。

    ニュルンベルク軍事裁判が始まって60年経った2005年12月、ニュルンベルク中央駅から旧市街地へ続く石畳の道は冷たかった。いつ見てもルネサンス様式の建物が建ち並ぶ、この街並みは落ち着いているように感じられる。そしてどっしりとしたその赤茶色の街並みが曇り空の下では、より存在感を増している。第二次世界大戦の空襲でニュルンベルクは街の91パーセントが破壊された。約13万棟あった家屋も無傷で残ったのは1万7千棟。人口も45万人から1万6千人になり、電気、水道、交通機関、電話、郵便、行政もなく、「ヨーロッパで機能停止している都市」としてアメリカ軍に指定された。

    今現在ニュルンベルクの街を歩いてみれば、街の91パーセントが破壊された街とはとても思えない。まるで戦争が起こらず、中世以来の街並みが途切れずにずっと続いているような気にさせられる。特にクリスマスマルクトを行き交う人々の表情には、60年前のそういった暗い過去は微塵も感じられない。

街並み
街並み

Hotel Deutscher Kaiser
Hotel Deutscher Kaiser
コンラディン・ヴァルターによって1888/89年建設。

マウトハレ
マウトハレ
1498-1502年に建てられた穀物と塩の倉庫
ニュルンベルク最大の倉庫

マウトハレ入り口の紋章
マウトハレ入り口の紋章
(1502年、アダム・クラフト作)

街並み
街並み

街並み
街並み

ナッサウアーハウス
ナッサウアーハウス
ニュルンベルク民家の最古の形とされる。
 

ナッサウアーハウス
ナッサウアーハウス

    この日は気温がマイナス2度と数字的には寒くなかったが、風が冷たく、体の芯まで冷えているような冷たさがあった。しかし街は活気に溢れ、店頭に並ぶ色とりどりの物が、曇った空の下での明るさ、暖かさを演出していた。

ブレッツェルのスタンド
ブレッツェルのスタンド

ブレッツェルのスタンド
ブレッツェルのスタンド

ブレッツェルのスタンド
ブレッツェルのスタンド

トラム
ブレッツェル
ミュンヘンでは見られない、この地の独特のものか
粉塩付きのブレッツェル。
スタンドで売られている物は何れもこのタイプ。

通りに立ち並ぶお店
通りに立ち並ぶお店

通りに立ち並ぶお店
通りに立ち並ぶお店

通りに立ち並ぶお店
通りに立ち並ぶお店

通りに立ち並ぶお店
通りに立ち並ぶお店

    中央駅から旧市街地の中心に向かって歩くと右手に大きな教会が見える。教会西側の入り口とその上にある、薔薇窓(共に14世紀の作)の彫刻の細かさに目を奪われた。プロテスタントの教会である聖ローレンツ教会である。元々この場所には小さな礼拝堂があった。1235年に始めて文書で確認されたこの礼拝堂は、取り壊されることになり(何故?)、その場所に新たな教会が建てられることになったが、建設に費用がかかることから、当時の礼拝堂のものを使って建てられたのがカトリックの聖ローレンツ教会である。当時この地域には手工業者を中心として約15.000人の人口があったことからして、小さな礼拝堂ではなくそれに見合った教会の建設が意識されたと思われる。そしてその費用のために寄付や免罪符販売がなされたが、それでも足りず、旧礼拝堂のものを使って建てたということから、よほど大きなそして誇るべき教会の建設が考えられたと想像が付く。

    教会の建設工事は1250年頃に始まり、1370/80年に第一期工事が終わった。また二つの塔は1400年頃完成したとされるが、この教会の大きな転機が1525年にやってくる。宗教改革によって、この街はプロテスタントになり、聖ローレンツ教会もプロテスタントの教会として新たに生まれ変わった。

    そして第二次世界大戦では、教会内の文化的財産、例えばステンドグラスなども全て取り外され、安全な場所に保管された。また西側の入り口や聖体塔は空襲による破壊を防ぐため、コンクリートで覆われた。しかし1943年8月10/11日のイギリス軍による空襲を始め、1945年1月2日、同年2月及び3月の空襲で教会の建物は壊滅的な状態になる。ただ幸運なことに二つの塔は1865年の火災の後、鉄筋で建てられていたので、空襲による被害はあったものの、火も燃え移らず終戦まで崩壊を免れた。またコンクリートで覆われた箇所は空襲の被害を受けず無傷であった。そして終戦後まもなく、瓦礫の撤去作業が始められ、また入り口を覆っていたコンクリートも取り外された。再建には6年の歳月がかかり、1952年8月10日、戦後初めての礼拝が行われた。

    教会を近くから見ても、そういった戦争の傷跡はあまり感じられず、他の街並みと同じように、以前と同じように立っているような感じられる。それだけ多くの人の努力があったのだろう。そこから市民の街に対する愛情のようなものが感じられる。礼拝堂の中に入ってみるとゴシック様式の幾重にも織りなす柱が、より高さを演出していた。

聖ローレンツ教会
聖ローレンツ教会
二つの塔の高さはそれぞれ80m、81m。

西側入り口
西側入り口
 

薔薇窓
薔薇窓(直径9m)

西側入り口の装飾
西側入り口の装飾

礼拝堂
礼拝堂
礼拝堂は幅30m、奥行き91,20m。

受胎告知像
受胎告知像<天使の挨拶>
1517/18年、ファイト・シュトース作。

聖体塔
聖体塔
1493-96年、アダム・クラフト作。

説教壇
説教壇
 

小祭壇
小祭壇

小祭壇
小祭壇

礼拝堂内
礼拝堂内

礼拝堂内
礼拝堂内

礼拝堂内
礼拝堂内

礼拝堂内
礼拝堂内

礼拝堂後方
礼拝堂後方

側廊
側廊

鐘

クリッペ
クリッペ

 

 

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