おでかけ ドイツ・ニュルンベルク〜アウグスブルク |
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前々回(別ウィンドウで開きます)、ニュルンベルクの街を歩いたときは、ペグニッツ川周辺を歩いた。川に映える煉瓦色の建物が、落ち着いた雰囲気を醸しだし、ゆっくりとした川の流れから時がまるで止まっているかのような錯覚を覚えた。中世の街並みがそのまま残っているというよりは中世にタイムスリップしたような感じがした。しかし今回、気温が低い12月、ムゼウム橋からペグニッツ川を覗くと、その流れる水を見ているだけで、体がより冷えそうで、中世の雰囲気を楽しむという余裕はなかった。 そういえば前々回の時、リヒャルト・ワーグナーのオペラ「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の第一幕の舞台になった聖カタリーナ教会を訪れた。第二次世界大戦で空襲による被害を受け、現在は廃墟として外壁だけが残っている教会である。正確には「教会」ではなくて、「かつての教会」とした方が良いかも知れない。そしてそこからそう遠くない場所に現在、ハンス・ザックス像が立っている。この近くに「マイスタージンガー」の第二幕の舞台となったハンス・ザックス(1494-1576)の家があった。彼はマイスタージンガー(職匠歌手)として、4.000曲以上の歌曲、1.700の格言詩、280の戯曲を作ったと言われる。 12月になると、そのハンス・ザックス像が立つ広場(ハンス・ザックス広場)に子供向けのクリスマスマルクト(Kinder Weihnachtsmarkt)が出る。1999年より現在の場所で開かれているということだが、こちらにはメリーゴーランドなど幾つかの遊戯施設もあって、子供連れの人が多い。ここでは子供がサンタクロースに願い事をしたり、また手紙を書いて出すことが出来、非常に夢のある場所になっている。広場に立つハンス・ザックス像も何処か楽しそうに見えるから不思議だ。
ニュルンベルクのクリスマスマルクトはドイツで最も古いクリスマスマルクトの一つに挙げられるが、いつ始まったか正確には分かっていない。1628年の文書にそれに関する記述が見られるので少なくとも約400年程の歴史がある。しかし現在の場所(ハウプトマルクト)で開かれるようになったのは1933年からと意外と新しい。それまでもこの広場が使われることはあったが、ここは主に別のイヴェントが開かれていたということ。ちなみにミュンヘンのクリスマスマルクトもいつ始まったのか正確には分かっていないが、その前身のニコラウスマルクトに関する記述が1310年に見られる。 ミュンヘンのマリエン広場やニュルンベルクのハウプトマルクトで開かれる大きなクリスマスマルクトは、一般的なヴァイナハツマルクト(クリスマスマルクトの意)ではなく、クリストキンドゥルマルクトと呼ばれる。クリストキンドゥルとは天使の姿をした子供ということだが、これはプロテスタントが普及するに従って、プレゼントを持ってくるのは聖ニコラウスではなく、クリストキンドゥルが持ってくるということに由来する(ミュンヘンのクリスマスマルクトはそこからニコラウスマルクトからクリストキンドゥルマルクトに呼び名が変わった)。
前々回(別ウィンドウで開きます)、の「おでかけ」でも書いたことだが(以下転載)、聖母教会が建つハウプトマルクトは元々ユダヤ人居住区であり、拡張の際に虐殺が行われた。その命令を下した神聖ローマ帝国皇帝カール4世がシナゴーグ(ユダヤ教会)の建っていた場所に聖母教会を建てさせ(1352-61年)、それを街に寄贈した。皇帝が「街に寄贈した」というと聞こえが良いように感じられるが、シナゴーグが建っていた場所に重厚感のある教会を置いたということから、当時の皇帝の、また帝国の異教徒に対する断固たる措置が垣間見れる。 街中を歩いていると、かつてのシナゴーグ跡の碑が目に留まった。その横にはレオ・カッツェンベルガー(1873-1942)の碑がある。これらはナチズムの犠牲者になった。最初にも書いたようにニュルンベルクとナチスとの結びつきは強い。言い換えれば、ニュルンベルクの街にはそれだけ反ユダヤ主義の傾向があるということだ。 ナチスが党大会の開催場所にニュルンベルクを選んだのは、この街が神聖ローマ帝国の帝国自由都市であったという理由だけではない。第三帝国期、ニュルンベルクの警察がナチスに対して非常に好意的だったことも挙げられる。それの影響か、ユダヤ人の市民権を奪ったニュルンベルク法が1935年に公布されたとき、ニュルンベルクには約1万人のユダヤ人がいたが、終戦時、その数は僅か10人になっていた。 これまで他宗教・他民族に対する弾圧は繰り返されているが、しかし、彼らはドイツの様々な方面で色々な役割を担っており、その意味では彼らも「ドイツ」であり、他宗教・他民族に対する弾圧はドイツ自身の文化・文明の破壊に他ならない。こういった追悼碑は単なる過去の記録としてではなく、今現在、そして未来に対する警告の碑としても意識する必要がある。
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