日記 オペラフェスト2006 |
雲の切れ目から覗く太陽。その日差しが痛い。オペラ開演一時間前の15時、バイエルン州立歌劇場に向かった。この日も「チケット求む」をしている人が多い。 オペラフェストの最終日である7月31日にリヒャルト・ヴァーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が上演されるようになったのはサヴァリッシュの時からで、その伝統は今も続けられている。そして2006年のその公演は今年のオペラフェスト最後の公演と言うだけでなく13年間その職にあった歌劇場総支配人ペーター・ヨーナス卿、同じく8年間、音楽総監督だったズービン・メータにとっても最後の公演となる。 「最後の公演」と知っているので、多くの人が「チケット求む」をしている。中には定価以上の値段で売っている人の姿もある。友人の一人が「チケット求む」をするというので、自分も手伝うと偶然にもチケットを売ってくれる人が現れた(とにかくチケットが手に入って良かった)。 歌劇場の中に入ると、やはり最終公演だからか普段よりも蝶ネクタイや裾を引きずるドレスの人が多い。この公演が特別な公演という意識が多くの人にあるのだろう。また色々なところで「メータ最後の〜」という言葉が聞こえる。ベルが鳴り、自分の座席に着く。 16時を少し回った頃、照明が落ち、オーケストラピット横からズービン・メータが現れた。ゆっくりと指揮台に向かって歩く。それだけでブラヴォーが飛び、床を蹴っている人もいる。演奏が始まる前から非常に熱狂的である。 そして祝典的という言葉が当てはまる壮麗な前奏曲が始まる。今まで色々な音楽を聴いてきたが、これほど深い音色の演奏を聴いたことがない気がする。オーケストラそれぞれの団員が持っている、 これが最後のメータ指揮という意識がものすごく熱量の高い演奏を生み出している。巨匠ズービン・メータが音楽総監督としてバイエルン州立オーケストラを指揮するのはこれが最後である。 ところでヴァーグナーの音楽は途切れることが無く、絶えず何かの音が鳴っており、ドラマが止まらずに続いてる。それゆえ、観客は拍手やブラヴォーを出すことが出来ない。ここまで素晴らしい演奏だと、それが何度も出てもおかしくはない。ヴァーグナーは拍手やブラヴォーによって音楽が途切れるのを好まず、一つの幕が終わるまで音楽は鳴り続けるよう作品を書いた。 ただ今回の公演で唯一、演奏中にブラヴォーが出た時があった。2幕に夜警の人が歌い終えたときだ。この役は大きな役ではなく楽譜のページ数ではおそらく一ページもあるか無いかの役だ。今回、その役を先日、引退発表をしたバイエルン州立歌劇場の宮廷歌手クルト・モルが歌った。公演前、この日の配役表をインターネットで確認すると、それまで発表されていた通り別の人物になっていた。歌劇場に着いて、初めて彼が歌うことを知った。ほぼ全ての観客がそうだろう。 何かを包み込むような、低くて大きく柔らかい声。そして特徴ある子音の発音。それを耳にすると直ぐにクルト・モルだと分かった。そして彼が歌い終わった後、ブラヴォーと拍手がでた。実際、彼が歌うのは2幕の最後で、そのまま一つの幕が終わった。 幕毎の舞台挨拶、それはあるときと無いときがあるが、その幕で出番の終わる人がいる場合、幕後の挨拶がある。普通は閉められた緞帳の間から顔を出すといった程度でその時には、オーケストラの人達はピットを去っていることが多い。 しかし今回の2幕終了後の挨拶では、指揮者メータを始めオーケストラの全団員がその場に残っていた。閉められていた緞帳が開く。舞台上には合唱なども含め歌手陣が立っている。そしてその場に多くの拍手でクルト・モルが迎えられた。 かなり多くの拍手とブラヴォーが飛んでいる。床を蹴る人も多い。オーケストラの人達、舞台にいる人達も拍手をしている。クルト・モルは観客や舞台上にいる歌手などに何度も頭を下げている。そこに歌劇場総支配人ペーター・ヨーナス卿が舞台袖から出てきて、彼に何かのメダルを授与した。 当日のプログラムによると、これがクルト・モルにとって、ミュンヘンでの最後の舞台と言うこと。彼に対する拍手は10分間以上続いた。ブラヴォーも飛んでいる。この光景を見ると彼が如何に多くの人達から愛されていたのかが分かる。47年間の歌手人生、お疲れ様でした。 2度の40分間の休憩があって、舞台は最終幕である、第3幕を迎える。このまま時間が止まってくれればいいのにと思うが、時間は今までと同じように進んでいた。照明が落ち、オケピットの袖からメータが出てくる。一斉にブラヴォーが飛ぶ。彼はいつもと同じように観客に向かって頭を下げ、そして演奏を始めた。 この日の歌手陣はペーター・ザイフェルト、マッティ・サルミネン、ヤン=ヘンドリック・ローテリング、アドリアネ・ピエツォンカ(彼女は2日前に代役として歌うことが決まった)など、最終公演に相応しい顔ぶれとなっている。演奏の方は最後まで集中力を切らすことなく、一音一音がまるで魂を持っているかのような演奏だった。 そして演奏は終わりに近づく。メータの指揮はこれでもか、これでもかといった感じに音を鳴らす。 そして本当に最後の最後、その一音のための指揮棒を振り下ろすのに、かなりの間があった。バイエルン州立歌劇場音楽総監督として最後の一振り。その最後の一振りのために、メータが大きく息を 吸い込むのに対し、観客の方は息を止めているような僅か一瞬の間だったが、時間が止まったように感じられた。 そして最後の一降りを振り降ろす。メータは渾身の力を込めてそのタクトを振り下ろしたように見えた。同時に沸き起こるブラヴォーと盛大な拍手。メータは直ぐに指揮台から降りず一呼吸置いてから指揮台を降り、そして各団員に握手をして回った。目頭を押さえている人も見える。 舞台が終わったことを示すように、一度緞帳が閉まる。その間、観客の方からもブラヴォーと拍手が続く。緞帳が再び開き、歌手陣が姿を現すと、それまで以上に大きなブラヴォーや拍手が出た。そして指揮者メータが登場すると割れんばかりの拍手が歌劇場内を包み込んだ。 続いて、歌劇場総支配人ペーター・ヨーナス卿も姿を見せる。舞台上中央で抱き合うメータとヨーナス卿。この日、3幕の始まる前に観客にハンカチが配られた。白いハンカチ。そこには「さようなら、ペーター・ヨーナス卿とズービン・メータ」と書かれている。彼らに対してそのハンカチが振られた。観客席からだけでなく舞台上でも白いハンカチが揺れている。 その後、バイエルン州の文化大臣からの挨拶があり、それぞれの功績がたたえられ、感謝の意が述べられた。それに続いてバイエルン州立歌劇場から代表者の挨拶が同じように続く。ヨーナス卿とメータからの挨拶はなかった。彼らの最後の挨拶は7月9日、「みんなのオペラ」と題して催された野外コンサートベートーヴェン「第九」の公演後になされた。 公演後、歌劇場の外に出ると、雨が降っていた。一つの時代が終わる、最後の別れを惜しむような 雨にも感じられた。 |
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(2006年8月6日) |
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