その後、大聖堂方面に向かうと、直ぐにレグニッツ川が見えた。そこにかかる
Untere Bruecke (下側の橋)から右手方面を見ると、元々漁民が住んでいた小ヴェネツィア地区が見える。19世紀に建てられた家々がレグニッツ川に面して密集して建っている。もし川が増水すれば、その家々はどうなるのだろう。そういった心配をしてみたが、現在は幾つもの増水対策がなされており、「増水被害は過去のものになった」ということである。現在の増水対策がなされる以前、最も被害を出した増水の一つが1784年のもので、このときは河氷によって下側の橋が完全に破壊されるほどの増水だったとのこと。その時唯一残ったのが橋の上にある皇后クニグンデの石像だけで、現在それは旧市庁舎に守られるようにして立っている。
下側の橋を戻り、Obere
Bruecke (上側の橋)を渡った。こちらから渡ると、ちょうど旧市庁舎の塔をくぐることになる。1387年に始めて文書に登場した旧市庁舎は、レグニッツ川の中州の上に建てられているが、これは言い伝えによれば、当時のバンベルク市民が司教に市庁舎建設の土地を要求したが司教はそれに応じなかった。そこで市民は司教の管轄区域との境界であるレグニッツ川に人口の中州を作り、そこに市庁舎を建てたということだ。その当時の市庁舎は1440年の火災で焼失し、その後市民によって新たに建て直された。そして1744-56年、ミヒャエル・キューヘルによってバロック・ロココ様式に改築され、現在の姿となった。
ところでその旧市庁舎の塔をくぐるところに「1944年7月20日」と日付の入った碑(プレート)があるのに気が付いた。その日付は映画のタイトルにもなっているほど、ドイツにとって重要な日である。その日、当時のドイツ軍の東プロイセンにある本営「狼の巣」でドイツ軍のクラウス・グラーフ・シュタウフェンベルク大佐が中心となって時限爆弾によるヒトラー暗殺計画が実行された。ヒトラーは奇跡的に軽傷を負っただけで暗殺は失敗し、結果、彼を始めロンメル元帥やベック参謀総長など疑いのかかる人物全員が処刑された。7月20日はそういった抵抗の日である。シュタウフェンベルク大佐は1926年、バンベルクの騎兵連隊に入隊し、また1933年11月26日にバンベルクで結婚式を行っているほど、彼にとってバンベルクは馴染みのある街だ。そういったことから、この場所にシュタウフェンベルク大佐の碑が取り付けられたのかも知れない。
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