やまねこの物語

おでかけ ドイツ・バンベルク

旅の目的

時期

クリスマスマルクト

2004年12月下旬

 

レグニッツ川を渡ると、道はそこから少し上り坂になる。正面に大聖堂を見上げる場所に来ると、その右手にノイエ・レジデンツ(新宮殿の意)が見えてくる。坂を利用して建てられているノイエ・レジデンツはバンベルクで最も大きな建造物で、ここを居城としていたバンベルク司教の権力の大きさが伺える。ノイエ・レジデンツの工期は2度に分かれ、まず1602年、ノイエ・レジデンツの向かいにある旧居城を補う建物として、領主司教ヨハン・フィリップ・フォン・ゲブスアッテルの元、建設工事が行われた。そして1695年から領主司教ローター・フランツ・フォン・シェーンボルンの依頼により、レオンハルト・ディーンツェンホーファーが設計をして建物を拡張した(1697-1703年)。

ところで1862年以降、ギリシャ王オットー(1815-1867)とその妃アマリエ(1836-75)がここを居城として利用した。バイエルン王ルートヴィヒ1世の次男である彼は1832-62年の間、ギリシャ王としてギリシャを統治していたが、ギリシャ国民との間に諸問題を抱えていたため、最終的にバイエルンに逃げ帰ってきた。何故バンベルクが居城に選ばれたのか僕には分からないが、おそらく次のように考えられる。バイエルン王ルートヴィヒ1世は、自国に財政的な問題があるにもかかわらず、息子が統治するギリシャの近代化に対しても多大な援助をしていた。それは少なからず王に対する非難にもなっていた。それ故、王ルートヴィヒ1世は帰ってきたオットーを王国首都であるミュンヘンに迎えることが出来ず、かといってバイエルンから追い出すことも出来ず、結局、当時ミュンヘンからの影響力が大きくなかったバイエルン北部のバンベルクにかくまったのではないか。

バイエルン王ルートヴィヒ1世が作ったルートヴィヒ・ライン・マイン運河(全長173km、1841年バンベルク部分が完成)と1844年に開通した鉄道もあり、ミュンヘンとバンベルクはそれほど時間をかけることなく移動出来るようになったのも、バンベルクに住んだ理由の一つかも知れない。いずれにしてもオットーとその妃アマリエはバンベルクで亡くなっていることから、ここでの生活にそれほど不満を感じていなかったのかも知れない(両者のお墓はミュンヘンのテアティーナ教会内にある)。
 

大聖堂広場
大聖堂広場

ノイエ・レジデンツ
ノイエ・レジデンツ

ノイエ・レジデンツ
ノイエ・レジデンツ

ノイエ・レジデンツ
ノイエ・レジデンツ

ノイエ・レジデンツ
ノイエ・レジデンツ

ノイエ・レジデンツ
ノイエ・レジデンツ


ところで現在、このノイエ・レジデンツと大聖堂、旧居城が面する広場である大聖堂広場は、少し坂になっているものの開けた場所となっている。しかし本来はこの広場を囲むようにして、そして旧居城を結ぶようにして宮殿が建築される予定であったが、スペイン継承戦争(1701-14)の影響で実現出来なかった。

その旧居城はかつて司教の居城であり、現在その一部が歴史博物館として利用されている。ドイツ・ルネサンス様式の旧居城は、後に神聖ローマ帝国皇帝となるバイエルン大公ハインリヒ2世によって11世紀に建てられたが、1085年の大火によって焼失した。1200年及び1220年に新しい居城(現在の旧居城)が建設され、1475年以降、幾度も増改築がなされてきた。しかし幾つかの建物はノイエ・レジデンツが完成した後、取り壊されるに到った。1573年に彫刻家パンクラーツ・ヴァーグナーによって作られた門には大聖堂を背にした聖母マリア、それを挟むように大聖堂を作ったハインリヒ2世とその妃クニグンデ、剣と鍵を手にしたペーターと竜を伴ったゲオルグ、さらに聖人オットー、聖人キリアン、擬人化されたマイン川とレグニッツ川のレリーフがある。

旧居城は丘の上にそのまま建てられたせいか、その地面も平らなものではなく、特に中庭は、まるで波打っているかのように感じられる。また不揃いの建物は何度も増築されたことを容易に想像させるものとなっている。そしてその人気(ひとけ)のない中庭に電飾がなされたクリスマスツリーがひっそりと立っていた。それがこの旧居城が過去のものではなく、現在も生きているということを示していたが、一方で主がいなくなった、何処か寂しい建物のようにも感じさせた。 

旧居城
旧居城

旧居城
旧居城

旧居城門
旧居城門

旧居城中庭
旧居城中庭
 

旧居城中庭
旧居城中庭

旧居城中庭
旧居城中庭

旧居城中庭
旧居城中庭

旧居城中庭
旧居城中庭

旧居城中庭
旧居城中庭

旧居城中庭から大聖堂を望む
旧居城中庭から大聖堂を望む

 

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