| レグニッツ川を渡ると、道はそこから少し上り坂になる。正面に大聖堂を見上げる場所に来ると、その右手にノイエ・レジデンツ(新宮殿の意)が見えてくる。坂を利用して建てられているノイエ・レジデンツはバンベルクで最も大きな建造物で、ここを居城としていたバンベルク司教の権力の大きさが伺える。ノイエ・レジデンツの工期は2度に分かれ、まず1602年、ノイエ・レジデンツの向かいにある旧居城を補う建物として、領主司教ヨハン・フィリップ・フォン・ゲブスアッテルの元、建設工事が行われた。そして1695年から領主司教ローター・フランツ・フォン・シェーンボルンの依頼により、レオンハルト・ディーンツェンホーファーが設計をして建物を拡張した(1697-1703年)。
ところで1862年以降、ギリシャ王オットー(1815-1867)とその妃アマリエ(1836-75)がここを居城として利用した。バイエルン王ルートヴィヒ1世の次男である彼は1832-62年の間、ギリシャ王としてギリシャを統治していたが、ギリシャ国民との間に諸問題を抱えていたため、最終的にバイエルンに逃げ帰ってきた。何故バンベルクが居城に選ばれたのか僕には分からないが、おそらく次のように考えられる。バイエルン王ルートヴィヒ1世は、自国に財政的な問題があるにもかかわらず、息子が統治するギリシャの近代化に対しても多大な援助をしていた。それは少なからず王に対する非難にもなっていた。それ故、王ルートヴィヒ1世は帰ってきたオットーを王国首都であるミュンヘンに迎えることが出来ず、かといってバイエルンから追い出すことも出来ず、結局、当時ミュンヘンからの影響力が大きくなかったバイエルン北部のバンベルクにかくまったのではないか。
バイエルン王ルートヴィヒ1世が作ったルートヴィヒ・ライン・マイン運河(全長173km、1841年バンベルク部分が完成)と1844年に開通した鉄道もあり、ミュンヘンとバンベルクはそれほど時間をかけることなく移動出来るようになったのも、バンベルクに住んだ理由の一つかも知れない。いずれにしてもオットーとその妃アマリエはバンベルクで亡くなっていることから、ここでの生活にそれほど不満を感じていなかったのかも知れない(両者のお墓はミュンヘンのテアティーナ教会内にある)。
|