王宮の丘に向かうためモスクワ広場からバスに乗った。バスの正面上部にある行き先表示板にはお城のマークがあるので、王宮行きのバスは容易に見つけられた。バスが急な坂を上ったと思ったら、直ぐに石造りのウィーン門をくぐり、王宮の丘に入ったのが分かった。正面に丸みを帯びたデザインで白壁が綺麗なルーテル派教会を見て、バスはそのまま、マーリア・マグドルナ塔の前を通り過ぎ、ブダの旧市街地を進んでいった。このあたりは、王女ジギスムンドの時代に栄え、ドイツからの商人も多かったとのこと。その後、トルコ軍に占領された際、大部分が破壊され、第二次世界大戦後に以前のように復元された。ところで先にバスで通り過ぎたマーリア・マグドルナ塔がある教会(塔だけが現存)は、ハンガリー人のためのカトリック教会だったが、トルコ軍によって多くの教会がモスクに改装されるなかでも、最後までキリスト教の教会として残り、そのときはカトリックとプロテスタント教徒に共用されていたとのこと。そういった旧市街地の中を通ると広場に出たので、そこでバスを下車した。
その広場は三位一体広場で、中央には1710-13年に彫刻家ウングライヒ・フィリップによってバロック様式で作られた三位一体の像が立っている。これは中世ヨーロッパで猛威をふるったペスト(特に1691年、1709年)の終焉を記念して作られた。その三位一体広場に面して建っているのが、マーチャーシュ教会である。先のマーリア・マグドルナ塔のある教会がハンガリー人カトリック教徒の教会であったのに対し、マーチャーシュ教会はドイツ人カトリック教徒のための教会である(ドイツ語名マティアス教会)。
マーチャーシュ教会は1255-1269年、王ベーラ4世の命により、聖母マリアに捧げるべく建設された。それ故、この教会の正式な名前は「聖母教会」となっている。当時はロマネスク様式の教会であったが、その後幾度も改築されゴシック様式の教会となり、14世紀後半に現在のバジリカに改築された。1309年にロベルト・カールがここでハンガリー王への戴冠式を行ったのを始め、15世紀には、この教会の名前「マーチャーシュ教会」の由来になったコルヴィヌス・マーチャーシュ(1443-1490)がここで戴冠式(1458年)及び結婚式を行った。その際、教会が改築され高さ80メートルの南塔(マーチャーシュ塔)や側廊の礼拝堂が建設された(歴代の王の戴冠式が行われたので「戴冠教会」とも呼ばれる)。
しかし1526年、トルコ軍による襲撃で教会は火災に遭い、1541年にはトルコ軍によってモスクに改装された。1686年、ブダが神聖同盟軍によってトルコから解放されるまでの間、この教会のフレスコ画は塗り込められ、アラーの神への礼拝が行われていた。オーストリアによって教会は再びカトリックに戻り、イエズス会によってバロック様式に改築された。そして1867年、オーストリアの皇帝フランツ・ヨージェフと皇妃エルジェーベト(ドイツ名エリーザベト、通称シシー)が、この教会でハンガリー王になるべく戴冠式を行った(リスト・フィレンツがその戴冠式のために「ハンガリー戴冠ミサ」を作曲した)。皇帝は戴冠式の際バロック様式のファッサードを取り払い、かつてのゴシック様式の姿に戻すように命じ、建築家シュレック・フリジェッシュ(1841-1919)が、残された資料や図面を調べてゴシック様式を基本に改築した。第二次世界大戦でそれも被害を受けたが、戦後以前のように忠実に復元された(現在見られる教会は1874-96年に、シュレック・フリジェッシュによってゴシック様式化されたものを戦後復元したもの)。
僕がマーチャーシュ教会を訪れたときは、塔と入り口周辺に足場が組まれその姿を見ることは出来なかったが、そのカバーがなされた足場の隙間からゴシック様式の入り口装飾が見えた。そこから中に入ると、礼拝堂内は幾何学模様と植物をあしらった模様が見える。そういったものにモスク時代の面影が残っているかも知れない。
|