やまねこの物語

おでかけ ハンガリー・ブダペスト

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オペラ鑑賞

2004年12月下旬

 

ここに最初に王宮が建てられたのは1255年、ハンガリー王ベーラ4世の時代である。1241/42年、モンゴルの来襲にあい、エステルゴムから逃れてきた王ベーラ4世は、ドナウ河畔のこの丘に目を付け、ここに砦を築くことに決めた(その砦が築かれた場所は現在も定かではなく、おそらくマーチャーシュ教会の近くと推測されている)。1356年頃、その砦の南側、つまり現在の場所に王ルドヴィクが王宮を建て(それまでの王宮はブダペストの北に位置するヴィシェグラードにあった)、1400年頃その場所に神聖ローマ帝国皇帝シギスムント・フォン・ルクセンブルクがゴシック様式の王宮を建設した。その際、王宮に初めて暖房施設が整うになり、また王宮の回りに城壁が築かれた。

1458年、王マーチャーシュのもと、王宮にはイタリアから職人や芸術家が集められ、王宮は初期ルネサンス様式で建築・装飾されて、ここでハンガリー・ルネサンスが華開き、ブダは中欧一の栄華を誇る街となった。しかし1541年、トルコ軍によって占領されると、ここは厩と火薬庫として利用され、1578年それが爆発し、王宮の建物は完全に崩壊してしまった。1686年、ブダが神聖同盟軍によってトルコから解放されると、バロック様式で王宮の再建が始められた。そして1749-70年、女帝マリア・テレジアのもとウィーンの宮廷建築家によって大規模な増改築が行われ、203もの部屋を持つ大きな宮殿となった(1790年以降、皇帝の代理人がここに住むようになった)。しかし19世紀半ばに起こった大火災で大部分が焼け落ち、それを機に再び大改築が考えられ、1881年からハンガリー人イブル・ミクローシュ、ハウスマン・アラヨーシュによって増改築がなされて、1904年にようやく完成した。その際、高さ62メートルのドームが完成。しかしそれも二つの大戦で被害を受け、1950年になって修復作業がなされ、現在の姿になった。そして1987年12月11日、王宮地区は都市計画、景観設計の発展において優れていると言うことで、ドナウ河岸と共にユネスコの世界遺産に登録された。

王宮への入り口であるコルヴィヌス門の前まで来ると、そこから王宮の丘とドナウ河畔を結ぶケーブルカーが見えた。同時にドナウ川にかかる鎖橋と聖イシュトヴァーン大聖堂が見える。鎖橋のブダ側はクラルク・アーダーム広場と呼ばれる場所であるが、そのロータリーから鎖橋へ進む車の流れが、更に聖イシュトヴァーン大聖堂に通じているように見え、大聖堂の存在感がより強められている気がした。

コルヴィヌス門は王コルヴィヌス・マーチャーシュに因んで名付けられた門で、ネオ・バロック様式で建てられている。その直ぐ横にはトゥルルと呼ばれる大鳥の像がある。これはアールパードがマジャル人を引き連れてハンガリー平原に入って来たとき、その大鳥が現れて進軍を助けたという話から、今でもハンガリーの民族統合の象徴とされているということ。コルヴィヌス門をくぐり階段を下りると王宮の建物の前に出る。王宮は現在、国立美術館、ブダペスト歴史博物館、ルドヴィク美術館、セーチェニ図書館として利用されている。王宮は近くで見ると、派手さのない非常にシンプルな作りに見える。しかしそれがどっしりと構えた、落ち着いた王宮らしさを演出している。

その王宮の前からドナウ川方面を見ると、まだ午後3時過ぎにもかかわらず、夕焼けに染まる国会議事堂が見えた。空を映すドナウの水面には、より垂直さを増し、まるで水の神殿のような議事堂が映っている。その右側(南側)に目をやると、すっかり影に覆われてしまった鎖橋が見えた。ブダとペストを結ぶ鎖橋が影に覆われることによってペスト側が更に明るく感じられる。ブダ、ペスト、オーブダの地区が統一されたのが1873年。その後、1896年の建国千年祭に合わせて街が拡張、整備されていった。その整備拡張事業はブダ側(王宮やその周辺)でもなされているが、主にペスト側で拡げられている。当時、王宮から、例えば皇帝や貴族は、その街が拡がっていく様をどのように見たのだろうか。

現在、僕が感じたのは、古い街並みが残るブダと、国会議事堂や歌劇場など政治・経済・文化を彩る建物が建ち並ぶペストを比べると、特に後者は活気がある生きた(活きた)街のように感じられた。ブダにも色々な博物館があり、ハンガリー人にとって重要な場所には違いない。しかしそれは、未来と言うよりも過去にそのアイデンティティを求める場所になっている気がする。ひっそりとした王宮前からペストの街並みを見ると、それが一層強く感じられた。

王宮の正面にはオイゲン・フォン・サヴォア(1663-1736)の騎馬像が立っている。これは1900年、ローナ・ヨージェフによってバロック様式で作られた。この像は1697年9月11日の「ゼンタの戦い」を思い起こさせるものとなっている。これは1684年にオーストリア、ポーランド、ベネツィアが教皇インノケンティウス11世の聖戦の呼びかけのもと同盟を結び(神聖同盟)、トルコに壊滅的な打撃を与えた戦いである。その同盟軍の中心がサヴォア家のオイゲン公であった。トルコはこの敗戦により、それまでヨーロッパに対して攻撃的だったのが守備的になり、この敗戦がその大きな転換点となった。

1900年にこの像が立てられているのが興味深い。1896年にハンガリー建国千年祭が行われ、ハンガリー人の民族意識がそれまで以上に強まったと思われる。オーストリア=ハンガリー二重帝国からハンガリーの完全独立の要求も考えられ、オーストリアにとっては、これ以上ハンガリーの「オーストリア離れ」を放っておくことが出来ない。またハンガリー贔屓としてハンガリー国民に人気があった皇妃エルジェーベトも1898年に暗殺されているのも、ハンガリーの「オーストリア離れ」を加速させる可能性がある。オーストリアにとってはハプスブルクがブダペストをトルコから救ったとハンガリー国民に再認識させる必要がある。たった一つの銅像だが、そういったことを意識すると、違った角度から歴史を見ることが出来、歴史の面白さを改めて感じさせられる。 
 

ケーブルカー
ケーブルカー

ケーブルカー
ケーブルカー

大鳥トゥルルとコルヴィヌス門
大鳥トゥルルとコルヴィヌス門

大鳥トゥルル
大鳥トゥルル

コルヴィヌス門
コルヴィヌス門

王宮
王宮

国会議事堂
国会議事堂

鎖橋
鎖橋

オイゲン・フォン・サヴォワの銅像
オイゲン・フォン・サヴォワの銅像

王宮のドーム
王宮のドーム

王宮
王宮

城壁
城壁

鎖橋
鎖橋

エルジェーベト橋
エルジェーベト橋


ドナウに面する側の王宮の建物は既に暗くなり、風が尚更冷たく感じられ始めた。足下を見れば地面は凍っている。滑らないように気を付けながら、王宮中央に位置するドームの下まで行き、そこから中庭を通って王宮の反対側に回った。こちらは夕焼けの陽を浴びてオレンジ色に輝く宮殿に長く伸びる濃い影が映っていた。
マーチャーシュの泉

王宮の反対側に出て、真っ先に目にとまったのは、マーチャーシュの泉だ(右の写真)。1904年、シュトローブル・アラヨシュによってロマネスク様式で制作された、この泉は王マーチャーシュに捧げるために作られた。この泉のモチーフは19世紀のハンガリー詩人ヴェレシュマルティー・ミハーイの詩で、それは王マーチャーシュに関する伝説に基づいている。お忍びで狩りをするマーチャーシュに、それが王とは知らずに恋をする農民の娘イロナ。彼女はそれが王と知って哀しむという話しである。泉の中央上部には狩人の格好をした王マーチャーシュ、左下にはイタリアの宮廷詩人ガレオットー・マルツィーオ、右下に王を見上げるイロナの像がある。

その泉を過ぎると、ライオンの門という中庭に通じる門がある。1904年、ファドゥルス・ヤーノシュによって作られた4体のライオンの石像が門を行き来する人を見張っている。「見張っている」と言うよりは「見守っている」と言った方が相応しいほど、中庭はひっそりとしていた。そこは陽が沈み既に薄暗かったのでそう感じたのかも知れない。

裏の門から城壁の方に出た。城壁外側には、かつてここを占領していたトルコ人の墓があるという。その城壁は、城壁の上に通路があるといった中世のドイツを思わせるような作りとなっている。僕が歩いたときは、夕日に染まった壁に長い影が映り、王宮を守るはずの城壁が、何処か王宮を閉じこめているような感覚を覚えさせた。

王宮と街灯
王宮と街灯

ライオンの門
ライオンの門

ライオンの門
ライオンの門

中庭から見たドーム
中庭から見たドーム

彫像
彫像

彫像
彫像

城壁
城壁

庭園
庭園

城壁
城壁

城壁
城壁

ツィタデッラ方面
ツィタデッラ方面

城壁
城壁

城壁
城壁

城壁
城壁

城壁
城壁

城壁
城壁

 

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