やまねこの物語

おでかけ ハンガリー・ブダペスト

旅の目的

時期

オペラ鑑賞

2004年12月下旬

 

城壁の所から王宮の丘を降りていくと、ケーブルカー乗り場に出た。運賃表を見てみると、同じ距離にもかかわらず登りと下りではその料金が違っている。ケーブルカー乗り場から見ると直ぐ上に王宮が見えている。そう高くはない位置にある。料金が違っているのは、往復での割引といった感じだろうか。1868-70年に作られたという、そのケーブルカーには現在感じられない郷愁を感じることが出来るかも知れない。

ところでドナウ川を中心にして東西に拡がるブダとペストの街を初めて結んだのが鎖橋である。それまで両方の街を行き来する方法は船しかなかった。1820年の冬、ハンガリーの繁栄に尽力したセーチェニ・イシュトヴァーン伯爵(1791-1860)はブダ側で行われていた父の葬儀に出席しようとしたが、ドナウ川が凍り付いて船を出すことが出来ず、ペスト側にいた彼は川を渡るのに一週間待たなければならなかった。その体験から橋の必要性を痛感し、彼はイギリスに渡り、テムズ川にロンドン橋を架けたイギリス人建設技師ウイリアム・ティアーニー・クラークとスコットランド人建築家アダム・クラークをブダペストに連れ帰った。

そして1839年から10年の歳月をかけ、1849年11月20日、380メートル、幅16メートルの橋が完成した。高さ48メートルの二つの古典主義の柱門が鉄の鎖を吊っていることから、鎖橋と呼ばれるようになったが、正式にはセーチェニ伯爵の名前を取って「セーチェニの鎖橋」と呼ばれる。更にブダ側の橋のたもとにある広場は建築家の名前を取ってクラルク・アーダーム広場と呼ばれるようになった。またこの地がブダペストからどれだけ離れているか、ハンガリー全土の起点0メートルに決められた(1971年)。

鎖橋は1849年に完成したが、その当時ヨーロッパでは自由・独立運動が各地で起こり、ハンガリーでも対オーストリア独立戦争が勃発した。ブダ側に追い込まれたオーストリア軍は、完成したばかりの橋を破壊すると脅し、実際に爆弾を使って一部を破壊した。結局、戦いはハンガリーの敗北に終わり、以後ハンガリーはオーストリアの体制下に入ることになった。そして鎖橋は同年11月に開通した。

第二次世界大戦では、橋はドイツ軍の空爆によって、ブダペストの他の橋同様に破壊されたが、戦後修復され、1949年11月21日に再開通した。しかし1956年のハンガリー動乱では、かつてナチス・ドイツからハンガリーを救ったソ連の戦車が、今度はハンガリーに軍事圧力を加えるためにこの橋を渡った。そして1989年10月23日、ハンガリーが社会主義と決別した日、市民は赤・白・緑のハンガリーの三色旗を持ってこの橋に集まり、新しい歴史の第一歩を踏み出したことを喜び祝福した。一つの橋が色々な歴史を持っているのが面白く感じられる。

ところで橋の建築家アダム・クラークは、その橋からブダの向こう側に通じるトンネルも完成させた。350メートルに及ぶこのトンネルは、1857年に完成し、その入り口は新古典主義様式で作られた。このトンネルはブダ唯一のトンネルで、それ故名前が付いておらず単に「トンネル」となっている。
 

ケーブルカー乗り場
ケーブルカー乗り場

ケーブルカーの案内
ケーブルカーの案内

紋章
紋章

トンネル
トンネル

鎖橋とライオンの像
鎖橋とライオンの像

鎖橋
鎖橋

鎖橋から見た王宮
鎖橋から見た王宮

鎖橋から見たドナウ川
鎖橋から見たドナウ川

街灯にある紋章
街灯にある紋章

鎖橋
鎖橋


ところで鎖橋のブダ側はクラルク・アーダーム広場と呼ばれているが、ペスト側は1947年以降、アメリカ大統領の名前を取ってルーズベルト広場と呼ばれている。それまでここは皇帝の名前からフランツ・ヨージェフ広場や(船からの荷を挙げる)荷挙げ広場と呼ばれていた。現在ここにはセーチェニ伯爵とデアーク・フィレンツ(1803-76)の二人の銅像がある。彼ら二人はハンガリーのために闘い、ハンガリー史においても重要な位置にある人物であるが、その広場が1947年以降、ルーズベルト広場と呼ばれているのが、当時からハンガリーが西側(アメリカ)をも意識していたと認識出来る。第二次世界大戦の敗戦国として、国家の存続、復興には東西両陣営の援助が必要であったのだろう。

その広場に面して建つ3つの建築が興味深い。広場北側に建つハンガリー・(学問)・アカデミーは1862-64年、ベルリンの建築家フリードリヒ・アウグスト・シュトゥーラー(1800-65)によってネオ・ルネサンス様式で建てられた。これは学問の始まりがルネサンス期ということで、その様式が採り入れられたが、ドナウ河畔に建つハンガリー・アカデミーを見ていると、ゆっくりとしたドナウの川の流れが、時の流れのようにも見え、アカデミーから落ち着いた雰囲気が感じられた。

また鎖橋をブダ側から渡ってくると、聖イシュトヴァーン大聖堂のドームの塔の色などから一体感をなして見えるグレースハム宮殿が正面に見える。このルーズベルト広場で鎖橋の正面にある建物は1907年、クヴィットネル・ジグモンドと、ラーシオとヨージェフのファーゴー兄弟によって、英国人トーマス・グレースハム卿が経営する保険会社のために建設された。ユーゲントシュティール様式のその曲線を抱いた建物からは落ち着きと上品さが感じられ、(19世紀から20世紀への)世紀転換期の時代の流れを感じることが出来る。特に夜はその電飾された建物が、同じく電飾された鎖橋と相まって、非常に綺麗な空間が演出される。

ところで、このグレースハム宮殿はその後、色々な会社の事務所やホテルになり、2004/05年現在、ホテル(Hotel「Vier Jahreszeiten」)として利用されている。そのグレースハム宮殿の横にはハンガリー銀行の建物が見える。その折衷主義の建築と、グレースハム宮殿は見事なまでに調和し、この二つの建築は、今回の僕のブダペスト滞在期間中に見た建築の中でも、最も上品で「完成」した建築物に感じられた。 

その後トラムに乗って中央市場まで向かった。1897年に建てられた煉瓦造りの中央市場は、ドナウ川の直ぐ近くに建てられているが、それは船上輸送によって様々なものが各地から運ばれていたことを物語っている。中に入ってみると野菜や肉だけでなく色々な物が売られているのが分かる。お店によっては日本語の案内も見受けられた。

グレースハム宮殿
グレースハム宮殿

ハンガリー銀行
ハンガリー銀行

ハンガリー・アカデミー
ハンガリー・アカデミー

 

中央市場
中央市場

中央市場
中央市場

中央市場
中央市場

中央市場
中央市場

 

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