城壁の所から王宮の丘を降りていくと、ケーブルカー乗り場に出た。運賃表を見てみると、同じ距離にもかかわらず登りと下りではその料金が違っている。ケーブルカー乗り場から見ると直ぐ上に王宮が見えている。そう高くはない位置にある。料金が違っているのは、往復での割引といった感じだろうか。1868-70年に作られたという、そのケーブルカーには現在感じられない郷愁を感じることが出来るかも知れない。
ところでドナウ川を中心にして東西に拡がるブダとペストの街を初めて結んだのが鎖橋である。それまで両方の街を行き来する方法は船しかなかった。1820年の冬、ハンガリーの繁栄に尽力したセーチェニ・イシュトヴァーン伯爵(1791-1860)はブダ側で行われていた父の葬儀に出席しようとしたが、ドナウ川が凍り付いて船を出すことが出来ず、ペスト側にいた彼は川を渡るのに一週間待たなければならなかった。その体験から橋の必要性を痛感し、彼はイギリスに渡り、テムズ川にロンドン橋を架けたイギリス人建設技師ウイリアム・ティアーニー・クラークとスコットランド人建築家アダム・クラークをブダペストに連れ帰った。
そして1839年から10年の歳月をかけ、1849年11月20日、380メートル、幅16メートルの橋が完成した。高さ48メートルの二つの古典主義の柱門が鉄の鎖を吊っていることから、鎖橋と呼ばれるようになったが、正式にはセーチェニ伯爵の名前を取って「セーチェニの鎖橋」と呼ばれる。更にブダ側の橋のたもとにある広場は建築家の名前を取ってクラルク・アーダーム広場と呼ばれるようになった。またこの地がブダペストからどれだけ離れているか、ハンガリー全土の起点0メートルに決められた(1971年)。
鎖橋は1849年に完成したが、その当時ヨーロッパでは自由・独立運動が各地で起こり、ハンガリーでも対オーストリア独立戦争が勃発した。ブダ側に追い込まれたオーストリア軍は、完成したばかりの橋を破壊すると脅し、実際に爆弾を使って一部を破壊した。結局、戦いはハンガリーの敗北に終わり、以後ハンガリーはオーストリアの体制下に入ることになった。そして鎖橋は同年11月に開通した。
第二次世界大戦では、橋はドイツ軍の空爆によって、ブダペストの他の橋同様に破壊されたが、戦後修復され、1949年11月21日に再開通した。しかし1956年のハンガリー動乱では、かつてナチス・ドイツからハンガリーを救ったソ連の戦車が、今度はハンガリーに軍事圧力を加えるためにこの橋を渡った。そして1989年10月23日、ハンガリーが社会主義と決別した日、市民は赤・白・緑のハンガリーの三色旗を持ってこの橋に集まり、新しい歴史の第一歩を踏み出したことを喜び祝福した。一つの橋が色々な歴史を持っているのが面白く感じられる。
ところで橋の建築家アダム・クラークは、その橋からブダの向こう側に通じるトンネルも完成させた。350メートルに及ぶこのトンネルは、1857年に完成し、その入り口は新古典主義様式で作られた。このトンネルはブダ唯一のトンネルで、それ故名前が付いておらず単に「トンネル」となっている。
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