おでかけ ドイツ・バイロイト |
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翌朝、雨が降る音で目が覚めた。時折強い雨が窓を叩いている。しかし天気予報では良くなると言っているので、雨が止むことを期待して朝食を頂いた。そして午前8時半にホテルを出発し、祝祭劇場へと向かった。祝祭劇場では午前10時からフュールングがある。少し時間があったのでバイロイト駅に立ち寄った。バイロイト駅の前は駅以外に歴史を感じさせる建物が少なく、もし今回の旅が車でなく電車であったならば、バイロイトの街に着いたときに違った印象を得ていただろう。 駅構内からホームを見た。駅の歴史的な外観とは違って構内やホームは非常に現代的な作りだった。しかしこのホームに例えば有名人や貴族などを乗せた特別列車が到着したとき、どのような盛り上がりだったのか、それを知るのは現在の駅からは難しいように感じられた。 駅から丘の方を見ると、そこに祝祭劇場が見える。まるで森の中に浮いているようだ。今も昔も多くの人があの劇場を目指していく。一種の巡礼地のようである。
1864年バイエルン王マクシミリアン2世が亡くなり、同年3月10日、王子であったルートヴィヒ2世が弱冠18才の若さで王位についた。ヴィッテルスバッハ家はかつてから学芸を愛した王たちを数多く輩出しており、ルートヴィヒ2世の祖父であるルートヴィヒ1世は王都ミュンヘンを「ドイツの芸術、学問、建築に中心」とすべく、その基礎を築き、ルートヴィヒ2世の父であるマクシミリアン2世は学者や文人を身辺に集めた。そしてルートヴィヒ2世は音楽家リヒャルト・ヴァーグナーに手紙を出し、バイエルンに招いた。当時窮乏のどん底にいたヴァーグナーは、人生最大のパトロンに巡り会った。 そして1864年11月にルートヴィヒ2世は『ニーベルングの指環』上演のため、王都ミュンヘンのイザール川岸に新たな劇場を建てることを考えた。建築責任者にはドレスデンのゼンパー・オペラを建築したゴットフリート・ゼンパー(1803-1879)が選ばれ、1867年6月にはヴァーグナー祝祭劇場のモデルが完成し、翌年から工事が始められることとなった。 しかし、その建設に関して予算がかかりすぎると言うことで議会が反対した。また既にミュンヘンには王立劇場があるので、新たな劇場は必要ないという意見もあった。ヴァーグナー自身は、当時一種の社交場となっていた従来のオペラハウスでは観客を完全に自身の音楽に集中させるのは難しいと考え、自らの音楽を上演するための劇場建築を望んでいた。ちょうどその時、バイエルン北部のバイロイト市が積極的に劇場建設を誘致した。ヴァーグナーにとっては王から財政的援助を得るためにはバイエルン国内であることが望ましく、また同時に王や政府からの干渉を防ぐため、劇場は首都ミュンヘンから、ある程度離れていた方が良いとの考えがあった。バイロイトはそういった条件を満たし、しかも劇場建設予定地が美しい丘の上にあったので祝祭劇場はバイロイトに建設されることとなった。 祝祭劇場は1872-75年、ゴットフリート・ゼンパーとリヒャルト・ヴァーグナーの設計を元に、オットー・ブリュックヴァルト(1841-1917)によって建てられた。1872年5月22日、リヒャルト・ヴァーグナーの誕生日に定礎式が行われ、ヴァーグナーは辺境伯歌劇場で自らの指揮によりベートーヴェンの第九を演奏した。その際フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)も出席している。1873年8月2日に上棟式が行われ、そして1876年8月13日、世界で最も古い歴史を持つ音楽祭が始まり、「ニーベルングの指環」が上演された(1874年11月21日、26年掛かりで「指環」完成)。因みに祝祭劇場の建設費用は428.384,09マルク(=約329万ユーロ、2006年4月下旬のレートなら約4億7千万円) 。 この劇場の建築は赤レンガ造りで、内部はほとんどが木造による建築になっている。客席(1925席)も、音の吸収を防ぐため、クッションなどは付いていない。またオーケストラ・ピットは舞台前面の奈落の底に設けられ、客席からは見えないように「貝殻」と呼ばれる蓋がかぶせられてある。また演奏中、客席は真っ暗になる。そうして客席の意識が舞台だけに向くように設計された。 しかしこの劇場も第二次世界大戦後にはアメリカ軍に摂取され、ここでは占領軍のためにオペレッタやラインダンスが上演されたと言うこと。そして暖を取るために衣装や舞台装置の一部が燃やされた。ヴァーグナーの街を自負するバイロイトの人達にとって、またヴァーグナーの中にドイツを見る人にとっては、言葉に出来ないことであっただろう。それが尚更、ヴァーグナーやバイロイト音楽祭の価値を高めたのかも知れない。
祝祭劇場裏の駐車場に車を止め、雨の中、祝祭劇場の方へ歩いた。ここで目に入ったのは「今日はフュールングがありません」という看板だった。本当にないのかと思って建物入り口に行くと「4月上旬より音楽祭準備のため、フュールングをしておりません」という紙が掲げられてあった。残念だがそれは仕方がない。窓ガラス越しに中を覗くと、雰囲気はミュンヘンのプリンツレゲンテン劇場(1900/01年建設)に似ているのが分かる。正確にはプリンツレゲンテン劇場はこの祝祭劇場を模して作られているので似ているのも当然と言える。 祝祭劇場を正面に見ると右手に大きなヴァーグナー像が見える。これは1939年頃に作られたもので、アルノ・ブレーカー(1900-1991)がヒトラーのために制作した。同じく彼はコジマ像も手がけた。ここで気になるのは、ヴァーグナーはコジマの方を見ているのに対し、コジマはヴァーグナーの方ではなく、遠くを見ているということである。 祝祭劇場周辺を少し歩いた。雨が降っていて回りの景色は緑が優しい。祝祭劇場の後方にあるビュルガーロイトにも足を向けた。ヴァーグナーやコジマがよく訪れただけでなく、音楽祭の際には出演者なども向かったレストランだ。暫く祝祭劇場の周辺を歩いたが、すれ違ったのは犬を散歩させている男性一人だけで、それ以外は誰も見なかった。また車も一台も通らなかった。雨がより寂しく降っているように感じられる。初めて見た祝祭劇場は、何処か忘れられた古戦場跡のような気がした。
その後車で市内に戻り、アルテス・シュロッス近くに車を止めて、前日時間的に訪れることが出来なかったフランツ・リスト博物館に向かった。心配だったのは、その日が聖金曜日で臨時休館になってはいないかだ。ちょうど午前10時の開館時間に博物館に到着した。扉を開けようとすると鍵がかかっている。呼び鈴を鳴らしても何の反応もない。暫く待ってみることにした。開館時間を5分くらい過ぎた頃だろうか。雨合羽を着て自転車に乗った女性がやって来た。「遅くなってごめんなさい」と鍵を開けてくれた。他に客はいなかった。その女性からチケットを買い、写真撮影に関して伺うと、ここではOKと言うこと。そして左手の部屋を指さして「あそこがリストの亡くなった部屋よ」と教えてくれた。 フランツ・リスト博物館を後にして、ジャン・パウル博物館に向かった。入り口には鍵が掛かっていたので呼び鈴を鳴らすと、男性がドアを開けてくれた。そこには自分たち以外に一組の男女がいた。聞けば彼らは研究者と言うことだった。こちらがバイエルン史を勉強していると言うと、それを聞いて面白かったのか、それとも喜んでくれたのか、とにかくその男性の嬉しそうな表情が印象に残った。ジャン・パウル博物館には日本語の本も展示されてあった。ジャン・パウル(1763-1825)の名前は知ってはいたものの、バイロイトでここまで有名だとは思ってもいなかった。街を歩けば彼にまつわる場所が幾つもあった。 ジャン・パウル博物館はかつてのチェンバレン・ハウスとして知られる。1908年から1927年に亡くなるまで、ここにイギリスの作家ヒューストン・スチュワート・チェンバレン(1855-1927)が住んでいた。チェンバレンとヴァーグナーの娘エーファ(1867-1942)が1908年12月に結婚した際、コジマから贈られた家である。チェンバレンと言えば、著書「19世紀の基礎」でアーリア人至上主義を唱えるなど、そしてまだ無名だったヒトラーをドイツの救世主と讃え、ヒトラーからは第三帝国の予言者と言われたことなどで知られる。
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