やまねこの物語

おでかけ ドイツ・バイロイト

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2006年4月中旬

 

    フランツ・リスト博物館、ジャン・パウル博物館と回って、直ぐ側にあるフリーメーソン博物館も訪れたが、こちらは聖金曜日で休館だった。そのままホーフガルテン(宮廷庭園)を歩いた。ここはヴァーグナーとコジマがよく散歩をしたところで、ヴァーンフリート荘からも直接入れるようになっている。その中には水路があって、冬の水が凍った時期には、ここはヴァーグナーの子供達の遊び場にもなり、ヴァーグナー自身もスケートに挑戦したらしい。

    冷たい雨の中、ホーフガルテンを歩いた。もう少し遅い時期、夏の頃だともっと緑が豊かになり、水辺に映る姿も別の表情を見せ、より落ち着いた場所に感じられるだろう。ところでヴァーグナーとコジマがバイロイトの街を見学に訪れたのは1871年の4月中旬で、この街に数日間滞在している。単純に比較するのは難しいが、今回自分が訪れた時期に訪れていることになる。もしかすると同じような景色を見たのかも知れない。このホーフガルテンに隣接する形でヴァーンフリート荘は建てられていることから、おそらく彼らはここを気に入ったのだろう。

    ホーフガルテンはそのままノイエス・シュロッス(新宮殿)裏側に繋がっている。ノイエス・シュロッスは、アルテス・シュロッス(旧宮殿)が1753年に焼失したのを機に建設された。辺境伯フリードリヒと妃ヴィルヘルミーネの命によって、1753-55年、ジョセフ・サン=ピエールによって建てられたが、それはヴィルヘルミーネが自身の希望通りに建てさせた宮殿であった。その建設に当たっては、ヴィルヘルミーネの弟であるプロイセンのフリードリヒ大王から節約して建てるよう忠告があったが、それを無視して宮殿は建てられた。その建築費用はほとんどが借金で賄われた。

    チケット売り場でチケットを購入して中に入った。辺境伯歌劇場と同じように、ここでも写真撮影は不可だった。それぞれの部屋やそれを結ぶ廊下の床には色の付いた板が敷かれており、見学する際はその上を歩いていく。ノイエス・シュロッスの中はロココ様式の部屋が続いていた。その中には日本の間と名付けられた部屋もある。和室になっているわけではなく、他の部屋と造りは同じだが、屏風に描かれているような感じで壁や天井に鶴や花の装飾がなされている。こういった日本的なものをロココ様式にしたものはあまり見かけないので興味を惹くが、それが18世紀に作られていたと言うから、当時の人が描いていた日本のイメージが垣間見れて面白い。

    このノイエス・シュロッスの見所の一つに椰子の間と名付けられた部屋がある。それは胡桃材が壁などに貼り付けられている豪華な部屋である。しかしそこは修復中だったのか部屋には入れず、入り口から眺めることしかできなかった。

    ノイエス・シュロッスの外に出ると、その正面には辺境伯の泉がある。ノイエス・シュロッスはロココ様式でその外観も上品な感じだが、泉(噴水)の方はバロック様式で、その分非常にインパクトがある。この辺境伯の泉は1699-1705年、エリアス・レンツによって制作され、1948年サン=ピエールによって、それまであったアルテス・シュロッス前から現在のノイエス・シュロッス前に移された。中央には騎馬像があるが、これは辺境伯クリスティアン・エルンスト(1644-1712)の像で、彼はトルコによる第二次ウィーン包囲(1683-1699)の際、大元帥して参加し勝利に貢献した。その騎馬像の下には踏みつけられるトルコ兵の像があり、そして泉の台座には4つの像がある。これは世界を表しており、雄牛に乗るのがヨーロッパ、鷲にはアメリカの原住民、アフリカはライオン、ターバンの騎馬兵はアジアを表している。

ホーフガルテン
ホーフガルテン
16世紀の終わりに造営され、18世紀の終わりに現在のような
英国風庭園になった。水路などにバロック様式の面影が見られる。

ホーフガルテン
ホーフガルテン

 

ホーフガルテン
ホーフガルテン

ホーフガルテンのパヴィリオン
ホーフガルテンのパヴィリオン
1805年のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が
バイロイトを訪問したとき、その妃ルイーゼのために建てられた。

ホーフガルテン
ホーフガルテン

ホーフガルテン
ホーフガルテン

ホーフガルテンへの入り口
ホーフガルテンへの入り口

ノイエス・シュロッス裏側入り口
ノイエス・シュロッス裏側入り口

オーバーフランケン地方政府の建物
オーバーフランケン地方政府の建物
ノイエス・シュロッス前に建ち、ノイエス・シュロッスと
一体感をなしている。

ノイエス・シュロッス前
ノイエス・シュロッス前

 

ノイエス・シュロッス
ノイエス・シュロッス

辺境伯の泉
辺境伯の泉

辺境伯の泉
辺境伯の泉
トルコ兵を踏みつけている。

辺境伯の泉
辺境伯の泉
アメリカとアジア。
 

    ノイエス・シュロッスの前から遠くを見ると非常に存在感のある建物が見えたので、そちらに向かって歩いた。その大きな建物はシュタットハレ(市立ホール)だった。もともとは1748/49年にジョセフ・サン=ピエールによって建設された辺境伯の騎馬ホールだった。そしてこの建物は第三帝国時代の1936年、バイロイトの建築家ハンス・ライッシンガーによって3000人収容のホールに建て替えられ、当時のバイエルン州首相の名前を取って、ルートヴィヒ=ジーベルト=ハレ(ホール)に改名された。

    そしてシュタットハレが建つ広場中央にはジャン・パウル像が見える。これは1841年、バイエルン王ルートヴィヒ1世の命でミュンヘンの彫刻家ルートヴィヒ・シュヴァンターラーによって作られた。この像を見てザルツブルクのモーツァルト像を思い出した。どちらも王ルートヴィヒ1世の命でシュヴァンターラーによって作られたものである。王ルートヴィヒ1世はバイエルンの芸術・文化面の発展に多大な貢献をしたが、こういった像を建設するのは当時の人だけでなく、後世の人にも例えば独自のアイデンティティを形成するのに貢献しているだろう。文化は人を作ると言うが、言い換えれば国家をも作る。当時のバイロイトの人がどれだけ歴史を意識していたかは分からないが、自分の街がプロイセン系からバイエルンの地になったのは如何に受け止められたか考えてみると興味深い。それともバイロイトはプロイセンでもなくバイエルンでもない。ここはフランケンだと意識していただろうか。しかしこういったプロイセンだとかバイエルンというのは、ドイツが一つの国にまとまるのが他の周辺国に比べて遅かったのが影響しているだろう。

    また王ルートヴィヒ1世による銅像の建設と同時にアルテス・シュロッス前にあった王マクシミリアン2世像も、ここはバイエルンであると、そしてバイエルン王国は如何に素晴らしいかをバイロイト市民に意識させているかも知れない。新しくバイエルンになった地に、バイエルンが如何なるものか、そしてバイエルンの方に目を向けさせるのに、もしかすると王達も必死になっていた可能性もある。

    逆にバイエルン(ミュンヘン)側から見ると、ヴァーグナーが生きていた当時はバイロイトはやはりバイエルンの辺境の地であっただろう。しかし今日バイロイトの街とバイエルンを結びつけるキーワードの一つは、間違いなくリヒャルト・ヴァーグナーだろう。彼がこの地に住んだことによって、ミュンヘンの人は「バイロイトはバイエルン」と意識しているに違いない。彼はミュンヘン・バイロイト間の距離と縮めるのに貢献しているだろう。いずれにしても中央と地方、そして現在と過去において、例えばバイロイトとバイエルンだけでも様々な見方があり、そしてそれぞれが相手に対する意識の中にある温度差を考えると、歴史は本当に面白く感じられる。

    ところで現在バイエルンの文学賞の一つがジャン・パウル賞と言う名称である。バイエルン州が授与する賞の名前に、彼の名前が付いているのは興味深い。因みに広場に立つこのジャン・パウル像は第三帝国時代、パレードの邪魔になると言うことで広場の端に追いやられていた(1991年になって現在の場所に戻った)。

シュタットハレ
シュタットハレ

街並み
街並み

シュタットハレ
シュタットハレ

噴水
噴水

ジャン・パウル広場を望む
ジャン・パウル広場を望む
正面にに見えるのは保健所。
かつては孤児院だった建物(1791年まで)。1772/73年、
ヨハン・ダーフィト・レンツによって建てられた。
1804年から1966年までは
クリスティアン・エルネスティヌム・ギムナジウムとして利用された。

かつての孤児院を表す装飾
かつての孤児院を表す装飾

かつての孤児院を表す装飾
かつての孤児院を表す装飾

ジャン・パウル広場
ジャン・パウル広場
バロック様式で手入れがなされている。 

ジャン・パウル広場
ジャン・パウル広場

シュタットハレ正面
シュタットハレ正面

街並み
街並み

街並み
街並み

ジャン・パウル像
ジャン・パウル像
右手にペンを、左手に本を持っている。

ジャン・パウル像
ジャン・パウル像

ジャン・パウルの碑
ジャン・パウルの碑

ジャン・パウルが住んでいた家
ジャン・パウルが住んでいた家
ここに1808-1811年の間住んでいた。
現在はジャン・パウル・カフェになっている。

 

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