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おでかけ スイス・ルツェルン |
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そして賑わっていて人が多い方面に向かって歩くとシュテルン広場に出た。この広場は1259年にその存在が確認されており、中世まではウンター・デン・ボイメン(木々の下という意味)と呼ばれていたが、この広場から5つの通りが延びているところから、17世紀にはシュテルン(星の意)の広場と呼ばれるようになった。またこの周辺にもフレスコ画の描かれた建物が幾つかあった。 ルツェルンの旧市街地を歩いていると、建物や広場、通りなど所々に説明があって、歴史を感じながら街を歩くことが出来る。中でも面白いのは、かつてその場所に何かがあったことを示す地面上の記念碑である。たとえばミュンヘンにはカウフィンガー塔の跡地や、(極端だが)バイエルン共和国初代首相クルト・アイスナーが暗殺された跡(地面に人形が残されている)など、歴史をイメージし易くなっている。ルツェルンにも同じようなものがあった。ヴェッギス門と呼ばれていたもので、元々はホーフ教会方面に通じることから1265年にはホーフ門と呼ばれていたものである。そしてホーフ門の上には塔があって、それは黒い塔と呼ばれていた。これは隣に建つ公衆浴場の煙で黒くなったことに由来している。1559-1623年には役人の住居として、そして監獄としても利用されていた。1862年には取り壊されるが、地面にその跡が残されている。
マテウス教会を通り過ぎると、陶工職人の家があった。遠くからでもその壁にある小さな装飾が見えていた。それを目標に歩いていると、その直ぐ横に登り階段があるのが分かった。人通りのある道からは逸れるが、登ってみることにした。上に登ると門がある。門と言うよりは城壁の一部を開けたという感じだろうか。地図を見てみると、どうやらそこはムーゼック城壁にある最も東側の塔、デヒリ塔の場所である。そして地図を見て気付いたのは、それまでほぼ直線であったムーゼック城壁がこの辺りで大きく曲線を描いて旧市街地を包み込むようになっていると言うことである。しかし現在そこには城壁がない。まるで街の発展を抑えきれなくなって城壁が「決壊」したといった印象を得た。 その階段を登ったところはムーゼック通りで、ムーゼック城壁とこの辺りで交差している。そのムーゼック通りを旧市街地と反対方向へ進んだ。下り坂になっており、下の通りに出た。そこはバスや車が走っている大きな通りで、そこには何故かは分からないが、先程地面にある跡を見たヴェッギス門が描かれていた。その辺りを歩いていると、ライオン記念碑への方向を示す案内が幾つか見られた。そちらの方に向かって歩いていると、正面に真っ白な小さな礼拝堂が見えた。ここがそのライオン記念碑がある場所に違いない。 その白い礼拝堂の横に入り口があって奥には大きな岩がある。見てみるとそこにライオン像があった。これはフランス革命時の1792年8月10日、パリのチュイルリー王宮でルイ16世一家を守ろうとして、全滅した786人のスイス兵を祀るため、1819-21年にデンマークの彫刻家ベルテル・トルヴァルセンによって自然の岸壁を削って作られた。アメリカの作家マーク・トウェイン(1835-1910)がこの像を見て「世界で最も悲しく、最も感動的な岩の彫刻である」と述べている。 これを見たとき疑問に感じたのは、スイス兵がフランス革命で王制側に付いたのなら、そしてスイスにもフランス革命の影響があったのなら、この記念碑を制作するのは、そう簡単なことではなかったのではないか。トルヴァルセンが制作するまでに時間があるのも、フランスの王政復古などが影響していると思われる。いずれにしても岸壁の中に、これだけのものを造るのは、想像以上に難しい作業だったに違いない。
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