やまねこの物語

おでかけ スイス・ザンクトガレン

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2006年4月上旬

 

    修道院と教会中央駅から目的である修道院にまず向かった。歩いてもそう遠くない。この日は週末で通りは人で溢れており、少し足早に歩くのさえ難しい程に街は人で賑わっていた。それほど大きくない通りを幾つか通り抜けると、通りの奥に修道院の建物が見えた。建物を目標に歩いていると、いきなり修道院が建つ大きな広場に出た。教会も目の前にある。通りの建物に遮られていて今まで見えなかったが、広場から見る教会の塔は非常に大きく感じられる。ただ気になったのは、塔上部にある窓が赤色だったことである。

    この修道院の歴史は612年まで遡る。アイルランドの伝道修道士ガルスがこの地で病気になり、小さな僧院を現在の修道院の場所に建てた。彼が亡くなったあとの719年、ベネディクトの戒律に倣って、司祭オトマー(689-759)が聖人ガルスのお墓の側に修道院を建て、オトマー自身が最初の大修道院長に就任した。この修道院はフランク王国の支持を受けており、747年フランク王国の国王ピピン3世(いわゆる小ピピン、714-769)によってベネディクトの戒律が導入された。その後818年には皇帝ルートヴィヒ敬虔公(778-840)によって自治権を持つ帝国修道院の地位に格上げされる。

    その後ザンクトガレン修道院はボーデン湖周辺地域で宗教的中心となるが、様々な権利をめぐってザンクトガレン市と対立する。しかしそれも例えば街に城壁を築くことで一致した1566年のヴィル条約などで関係は修復されることになる。そして1755年、修道院の歴史にとって大きな意味を持つ新たな工事が始められた。ボーデン湖周辺地域で最後の大バロック教会建設である。これが現在の大聖堂聖ガルスとオトマー教会である。しかし1805年修道院は閉鎖され、教会は新たに設置されたザンクトガレン州のカトリック中央教会となり、1824年にはクール・ザンクトガレン司教区の大聖堂と位置付けされるようになった。

    教会への入り口は、教会横側中程にある。この教会は建物中央に多角形(円形)に膨らんだ箇所(ロータンダ)があり、そこに入り口が設けられてある。外から見ると、教会のどっしりとした重量感を感じると同時に、見上げなければならない程に大きな窓にも圧倒される。教会礼拝堂への入り口扉を押した。予想以上に軽い扉だ。教会を見るときはいつもそうだが、礼拝堂へ足を踏み入れる瞬間は、まだ見ぬ世界への気分の高揚が感じられる。

教会
教会
塔の高さは68メートル。1766年完成。

紋章
紋章
 

入り口
入り口

入り口扉
入り口扉
 

    1983年にユネスコの世界文化遺産に指定されたザンクトガレン修道院は、その美しさからバロック様式や教会に関する本など色々なところで紹介されているので、自分も写真では何度か見たことがある。既にその形等は知ってはいるものの、礼拝堂に足を踏み入れたとき、自然と自分の足は止まった。写真などで見ているものよりもその空間は遙かに大きく、そして明るかった。

    この教会を見て礼拝堂内にある柱の白さの意味が分かった。というのは例えばミュンヘン近郊のフュルステンフェルト修道院などの礼拝堂の柱は、そこにも色つき大理石が使われ、礼拝堂の空間そのものが非常に豪華に演出されている。逆にこのザンクトガレン修道院のような教会は白い質素な柱があるだけで、礼拝堂そのものとしては、豪華さに欠ける気がする。しかしザンクトガレン修道院は礼拝堂の窓がこれだけ大きいと、外の光がその白い柱に反射して柱の存在感が感じられなくなる。これこそがこの教会建築の最も重要な箇所かも知れない。つまり柱の存在感がなければ、天井にある大きなフレスコ画はまるでそこに浮いているように感じられ、単に大きいと言うよりも迫力さえ感じられる。

    礼拝堂は柱形(ピラスター)の建築様式を採り入れているが、面白いのはこの教会が二つの内陣を持っているということだ。といっても一方は一般的な教会のようにパイプオルガンが設置されてあるが、その下は階段状になっており、主祭壇が置けるようになっている。また内陣部分が非常に大きく、教会の約半分を占める程である。教会中程にある円形箇所の入り口から中に入ると、入って直ぐ左側が内陣である。そこには格子があってそれ以上奥へは行けないのだが、それが礼拝堂の奥行きをより演出しているようでもある。

    大聖堂聖ガルスとオトマーは1721年、カスパー・モースブルッガーによって最初の設計がなされた。しかし彼が亡くなった後を継いだヨハン・ミヒャエル・ベーアによって、1723年礼拝堂の真ん中に8角形の箇所が作られる案が出された。その後1730年から1754年の間、その他6人の建築家によって様々な案が出され、モースブルッガーとベーア案を如何に採り入れるか協議がなされた。そして1755年その6人の一人であるペーター・テュンプ(1681-1766)によって、ベーア案を元に建築がなされることになり、その工事は1770年に終了した。

礼拝堂内陣方面
礼拝堂内陣方面
主祭壇はヨーゼフ・ジモン・モースブルッガーによって
1808-1810年新古典様式で作られた。
復活祭前で紫の布で覆われている祭壇画は
フランチェスコ・ロマネッリ作のマリアの昇天(1645年頃)。

礼拝堂後方
礼拝堂後方
礼拝堂の長さは97メートル。


 

内陣
内陣
4つの祭壇はフィデル・シュポラー作。

 

礼拝堂
礼拝堂
礼拝堂内の彫像は彫刻家ヨハン・クリスティアン・ヴェンツィンガーのものを元にしてヨハン・ゲオルクとマティアス・ギグルによって制作された。聖ガルスの生涯を表現している。

天井のフレスコ画
天井のフレスコ画
ヨーゼフ・ヴァネンマッハーによって描かれた。
修道院にとって重要な人物であるガルス、オトマーなどが
描かれている。

パイプオルガン
パイプオルガン


 

説教壇
説教壇

説教壇
説教壇

側廊
側廊

側廊
側廊

内陣上部の彫像
内陣上部の彫像

主祭壇上部の装飾
主祭壇上部の装飾

格子装飾
格子装飾


 

内陣座席
内陣座席
1763-70年、ヨーゼフ・アントン・フォイヒトマイヤーを中心に
ヨハン・ゲオルクとフランツ・ディルによって作られた。
オルガンは1768、1770年制作。

内陣座席
内陣座席
それぞれの彫刻は聖ベネディクトの生涯を表している。

彫像
彫像
 

戒告室
戒告室

戒告室の装飾
戒告室の装飾

戒告室の装飾
戒告室の装飾

椅子
椅子

教皇ピウス12世の碑
教皇ピウス12世の碑

パイプオルガンの下
パイプオルガンの下

    教会を見た後、同じくユネスコの世界文化遺産に登録されている修道院図書館の方へと向かった。

 

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