やまねこの物語

おでかけ ドイツ・ヴァルハラ

旅の目的

時期

観光

2004年10月中旬

 

回廊を半周すると、神殿内部への巨大な入り口に辿り着く。この6,7mの高さのある大きな扉は、神々がいる神殿に足を踏み入れる者を威圧しているように感じられるほど存在感がある。扉の所から神殿内部を覗くと、そこには様々な大理石で彩られた空間が拡がっており、外のギリシャ様式とはその趣が違っているように感じられた。また柱は外がドリス式であったのに対し、神殿内はイオニア式となっているのも面白い。神殿の内部にはバイエルン王ルートヴィヒ1世の命によって創られた偉大なドイツ人の胸像がある。大理石で創られたこの胸像は1842年の神殿完成時には96体あり、2004年10月現在は127体となっている。ミュンヘンにある名誉堂にも同じく大理石の胸像があり、こちらは主にバイエルンで活躍した人の胸像となっている(一部が名誉堂からヴァルハラ神殿に移された)。

現在の127体の胸像はかつての皇帝や音楽家、作家など様々な分野に及び、言い換えればこの神殿は「ドイツ」そのものを表していると言っても良いかも知れない。一番新しく設置されたのは反ナチスグループ「白バラ」のメンバーであった、ゾフィー・ショル(1921-1943)である。ただ胸像の中にはモーツァルトやマリア・テレジアなど、現在の国の概念から見るとドイツ人でないドイツ人もいる。そう考えるとこの神殿はドイツと言っても大ドイツ主義的ドイツを具現しているのが分かる。

ヴァルハラとはゲルマン神話において神々が住む場所を意味する。その神々が住む場所を女神ヴァルキューレが守り、黄金で縁取られた星が施された空を支えている。リヒャルト・ヴァーグナーの音楽が似合いそうな空間だ。といっても音楽はこの空間から発せられるのではなく、神殿の外から神々を包み込む方が良い。と、そんなことを考えていると友人が「ヒトラーも自身の像を置きたかったのかな」と聞いてきた。「偉大なドイツ人」と聞いて、総統として彼も自身の像を置きたかったかも知れない。ただ彼らのイデオロギーから見ると、中には「偉大でない」ドイツ人も混じっている可能性があり、胸像の再整理も必要になってくるだろう。しかしルートヴィヒ1世の全身像があることを考えると、ヒトラーが総統として胸像を置いたとは思えない。

ところでこれらの胸像が置かれているそれぞれの場所を見てみると7体分の空白があるのが分かった。もしかすると(設置されてから)後の時代の判断によって移動された像もあるかも知れない。現在、ここに像を置くには王ルートヴィヒ1世の遺言により、その人物の死後、最低10年経っている必要がある(現在は1912年のバイエルン州議会の決定により死後20年以上)。またその審査に5-7年かかるとのこと。ちなみに最も最近の人物はかつての西ドイツ首相コンラート・アデナウアー(1876-1967)で1999年に胸像が置かれた。

ところでヴァルハラ神殿内の大きさは全長48,5m、幅14m、高さ15,5mで、オリジナルであるアテネのパルテノン神殿(全長49m、幅14m、高さ16m)とそれほど変わりがない。ヴァルハラ神殿は、王ルートヴィヒ1世のもと、ミュンヘンにも多くの建築を建てた建築家レオ・フォン・クレンツェ(1784-1864)による作品である。神殿の床には「1830年10月18日工事開始」「1842年10月18日完成」との碑文がある。両者とも同じ日であるが、これは僕たちが訪れた日と一日違いだったので、それを見つけた時少し嬉しく感じられた。

王ルートヴィヒ1世による、このギリシャ風の建築はもちろん王の趣味によるところもあるだろうが、王の息子(次男)のオットー(1815-1867)に対する思いも含まれているかも知れない。オットーはギリシャ王(統治期間1832-1862)として、トルコからのギリシャ独立に貢献した(ギリシャ独立戦争1821-1829)。そう考えると、この神殿が単なるコピーというより、ギリシャとドイツを結ぶ一つの架け橋のような存在にも思えた。
 

回廊
回廊

神殿入り口
神殿入り口

ヴァルハラ神殿
ヴァルハラ神殿

胸像
胸像

ヴァルキューレと碑文
ヴァルキューレと碑文

柱と天井
柱と天井

王ルートヴィヒ1世像
王ルートヴィヒ1世像

王ルートヴィヒ1世像
王ルートヴィヒ1世像

床

椅子
椅子

ゲーテ
ゲーテ

マリア・テレジア
マリア・テレジア

リヒャルト・ヴァーグナー
リヒャルト・ヴァーグナー

ゾフィー・ショル
ゾフィー・ショル

 

戻る

進む

menu
「おでかけ」のトップに戻る