やまねこの物語

日記 オペラフェスト2006
11)ファビオ・ルイージと「王子王女」

15時少し前、空が暗くなり、いきなり大粒の雨が降り始めた。地面めがけて飛び込んできているような雨だった。そして大きな雷の音。雷の音が聞こえるたびに何処かの子供が叫んでいる。ゲヴィッターと呼ばれる夕立のようなもので、特に夏の時期に多い。ゲヴィッターはそれほど長く続かず、その嵐が過ぎると一気に気温が低くなり過ごしやすくなるので、時には有り難く感じられることもある。

この日の夜、バイエルン州立歌劇場でフンパーディンクのオペラ「Koenigskinder 王子王女」(「王様の子供達」と言った訳もある。訳が決まっていないのは、それだけマイナーな作品だからだろう。)が上演される。指揮はファビオ・ルイージ。個人的に最も好きな指揮者の一人である。彼の指揮は非常にダイナミックでそれでいて、しなやかさがある。そしてその奏でる音も非常に緻密なもので、深い「木の響き」がする。

そのファビオ・ルイージが振るにもかかわらずチケットを買っていなかった。演目的に直ぐには売り切れにならないだろうと予想していた。オペラの開演は19時である。18時過ぎに歌劇場に向かった。その頃にはゲヴィッターも止み、あれほど激しい雨が降ったにもかかわらず地面にはその跡が見られなくなっていた。ただ時々吹く冷たい風がゲヴィッターがあったことを示していた。

18時半少し前に歌劇場に着くと、外でチケットを売っている人がいる。チケット販売は1月なのでその時に購入したものの、来られなくなる人がいるのだろう。自分はまず指揮者が見える場所を優先に考えていたが、「チケット必要ですか」と最初に声をかけて来てくれた人のものが良い場所で、しかも値段もかなり安くしてくれたのでそれを購入することにした。

歌劇場の建物に入って暫くすると、非常に珍しく館内アナウンスが流れた。「みなさま、こんにちは。
現在、技術的な問題が発生しましたので開演は10分遅れます」というものだった。そして席に着いていた人は一度、観客席の外に出るようにと係の人に言われていた。

何が起こったのだろう。19時15分頃、ようやくベルが鳴り席に着くことが出来た。普通は3度ベルが鳴るのに今回は一度だけで、直ぐに照明が落とされた。同時に緞帳の所にスポットライトが当てられ、そこから歌劇場総支配人ペーター・ヨーナス卿が顔を出した。例えば主役級の人が急に降板する時など、こうやって説明をする。残念な説明もあれば、時に観客が喜び沸き上がる説明もある。しかし今日の歌劇場総支配人の顔は間違いなく前者だった。

「みなさま、バイエルン州立歌劇場へようこそ。」と挨拶が始まり、「重要な問題が発生しました」と続いた。「あ、その前に、公演は、やります。」で観客から拍手が出る。「技術的な問題ではありません。歌手陣でもオーケストラでもありません。ご存じのように、ミュンヘンには15時頃非常に強いゲヴィッターがありました。その影響でミュンヘン空港が閉鎖されてしまいました。」

「空港が閉鎖されてしまったので、飛行機の発着にも影響が出て、ドレスデンからの飛行機が予定を
遅らすことになりました。」ドレスデンと言えば・・・。「そうです。指揮者のファビオ・ルイージがまだ来ていません。」というものだった。彼はザクセン州立歌劇場の音楽総監督である。

「彼が乗っていた飛行機は19時12分にミュンヘンに到着しました。今頃はIKEAの側を通っているかも知れません。」ウケる観客。「しかし観客も、ファビオ・ルイージにとっても、このままオペラが始まらないと言うのは本望ではないでしょう。ですからアシスタントが振ります。」といってその人物が紹介され、19時半頃、オペラが始まった。

ファビオ・ルイージはどうやってくるのだろう。タクシーだろうか。それとも州の催しなのでサイレンを鳴らしたパトカーで急いでやってくるのだろうか。しかし当日に来るというのはぶっつけ本番と言うことだろうか。それとも本来は本番前に合わせがあったのかも知れない。そんなことを考えていた。

そして19時40分頃だろうか。オケピットに一人のひとが入ってきた。ファビオ・ルイージである。灰色がかった青色の服で、明らかに私服だ。それを見て数人の人が拍手をした。また一人だけブーと言った人もいた。ところでフンパーディンクのこの作品は、ヴァーグナーのように音楽が途切れることなく続いている。間がない音楽でどのように指揮を変わるのだろうか。

その様子を見ていると、彼も同じく指揮台に立ち、アシスタントの指揮者から上手く指揮棒を譲り受けて見事に音楽を演奏し続けた。まるで走っている車で運転席と助手席の人が変わるようなものである。

「ファビオ・ルイージにとってフンパーディンクの『王子王女』は非常に思い入れのある作品である。」
以前オペラの雑誌にそのように紹介されていた。この音楽を多くの人に知ってもらいたいと彼はミュンヘン放送交響楽団と録音をしたということ。そして2005/06シーズンに新演目としてこの作品が
決まった時から今日まで、ずっと彼が指揮を振っている。彼としてはこの作品の指揮は他人に譲れないものがあるのかも知れない。

開演が大幅に遅れたので休憩時間も当初予定されていた40分から約20分に短縮され、前半が終わって直ぐに後半が始まった気がした。ファビオ・ルイージは私服ではなく、蝶ネクタイをしたいつもの指揮する服装に着替えている。

ところでこの「王子王女」は、1897年、バイエルン王立宮廷歌劇場(現在の州立歌劇場)で
世界初演された。演奏する方にもその誇りがあるのか、曲が長いにもかかわらず最後まで緊張感のある演奏だった。

オペラが終わってトラムを待っているとファビオ・ルイージがピンク色の大きなスーツケースを引きずって自分の近くを通り過ぎようとしていた。思わず「ブラヴォー」と軽く拍手をすると、彼はそれに「ありがとう」と応えてくれた。「ありがとう」と言いたいのは自分の方だった。ゲヴィッターが来たせいで空気が非常に澄んでいる。夜空には幾つもの星が輝いていた。

公演後の挨拶

公演後の挨拶

公演後の挨拶

公演後の挨拶
ファビオ・ルイージ(左)とアシスタントの指揮者(右)

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(2006年8月6日)

 

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