おでかけ スイス・ルツェルン |
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2006年3月、バイエルン州立歌劇場でリヒャルト・ヴァーグナー「ニーベルングの指環」が上演された(指揮は全てZ.メータ)。ちょうど歌劇場では舞台関係者のストが行われている時期で、「ラインの黄金」はコンサート形式に、残り3作品は舞台が簡略化されて上演された。それにもかかわらず多くの人が聴きに来ていた。僕も全4作品全て聴きに行った。毎回素晴らしい演奏であったが、中でも「神々の黄昏」では最後にこみ上げてくる感情を抑えるのが難しい程に心動かされた。言葉で表現出来ないような美しい世界に触れた気がした(右写真、「神々の黄昏」公演後の挨拶)。 2006年4月、日本から来られたY氏の同行でスイス・ルツェルンを訪れることになった。これはスイス・ザンクトガレン、リヒテンシュタイン・ファドゥーツ(別ウィンドウで開きます)と続く旅で、ルツェルンは自分としても是非訪れてみたい街であった。というのはドイツの作曲家リヒャルト・ヴァーグナー(1813-1883)がこのルツェルンの街に1866年から1872年の間、住んでいたからだ(それ以外に何度も滞在している)。 「自分が住まいから何処に行こうとも、そこには素晴らしい世界が拡がっている。ここ以上に美しい場所を知らない。」と、1866年4月ヴァーグナーがルツェルンからバイエルン国王ルートヴィヒ2世に宛てた手紙にはある。またこの地でヴァーグナーは1859年8月6日「トリスタンとイゾルデ」を完成させた。そしてルツェルンの教会でコジマ(1837-1930)と結婚式を挙げた。今回の旅ではヴァーグナーゆかりの場所を見ることが出来るかどうか分からないが、それでも彼が住んでいた街、彼が見ていた風景を見られるというのは本当に嬉しいことである。 リヒテンシュタインの首都ファドゥーツからリヒテンシュタインバスで、まずスイス・ブックスに向かった。そこからザルガンス Sargans に行き(約15分)、そこでタールヴィル Thalwil 行きの電車に乗り換える(約1時間)。そしてタールヴィルからルツェルン行きの電車に乗る(約40分)という、乗り換え時間を含めて約2時間15分の行程である。時間的には長い時間ではないが、乗り換えが多いのが不安であった。しかしこれに関してはファドゥーツのホテルのレセプションでY氏が予め伺ってくれていたので、非常に助かり、それを元に乗り換えホームなども難なく移動出来た。 ファドゥーツで朝を迎えたときはシトシトと雨が降っていたが、街を発つ頃にはその雨も上がっていた。気温は少し肌寒かったが、乗り換えの大変さとルツェルンへの期待が、それをあまり意識させていなかった。ルツェルン駅にはほぼ予定通りに遅れることなく12時半頃到着した。まず観光局を探して、そこで地図をもらって荷物を置くためにホテルに行くことにした。もらった地図を参考に歩いたが、どうやら10分くらいで着きそうな距離である。ホテルは簡単に見つかった。ホテルのドアを開けようとすると「チェックインはここではなく、〜ホテルで」と張り紙があった。そのホテルを探してチェックインを済ましたが、そこで「ニワトリはどなたですか?」と質問された。意味が全く分からないので、とりあえず自分が「ニワトリ」を選んだ。 ホテルの部屋に着いてみて何が「ニワトリ」か理解出来た。このホテルは各部屋に名前が付いており、同じ部屋が二つと無い作りになっている。パンフレットを見ると「キング・スイート」「バロック・スイート」「ハネムーン・スイート」以外にそれぞれの部屋にはテーマあって、例えば海賊、天使、エジプトなどある。Y氏の「スイス・シャレー」という部屋を見せてもらうと、広い部屋が立派な山小屋のようになっていて、その応接室のような箇所にはスキー板が壁に掛けられてあり、その雰囲気を味わうことが出来た。自分の「ニワトリ」部屋は正確には「農民」だった。屋根裏部屋の狭い部屋にはニワトリの置物が幾つもある。数えてみると24体あった。ちょうどヨーロッパで鳥インフルエンザのニュースが報道されている時期だったので、ヨーロッパの人が見れば中には驚いて気絶する人が出たかも知れない。トイレなどにもニワトリが置かれている。そして質素な机やベットが農民を表していた。これに例えばフランス・スナイデルス(1579-1657)の絵画でも壁に飾ってあれば、より雰囲気を味わえたかも知れない。 ところでザンクトガレンでスペイン人建築家サンティアゴ・カラトラヴァ(1951-)が手がけた救急センターを見た。ルツェルンにも彼の作品があって、それはルツェルンにおいて個人的に見てみたい建築の一つだった。1984-1991年に建てられたルツェルン駅である。1971年ルツェルン駅は火災に包まれた。そして再建計画でカラトラヴァの作品が選ばれたと言うことで、実際にそれを見てみると、シンプルだが上品さが感じられる建物で、また中は非常に明るい。知らない街に降りたったとき、その駅構内が明るいと清潔感が感じられ、街に対する印象も自ずと良くなる。そしてその建築の目の前に、火災で崩れずに残ったかつてのルツェルン駅の入り口が「展示」されている。交通の邪魔にならないように、しかし堂々としていて、ルツェルンの過去の繁栄や歴史を伝えている。
ホテルに荷物を置いて、まず昼食に出かけた。ホテルの玄関を出た所にレストランがあったので、そこに入りロイス川に面したテラスの席に着いた。日差しが強い。陽が出ているときは温かいと言うよりは暑いと感じる。しかし風が吹けば少し肌寒く感じる天候だった。ここで鶏肉のクリームソースかけを注文した。ニワトリの部屋を見たインパクトがあったので、あえて鶏肉を選んでみた。そして昼食を食べた後、早速、市内散策に出かけた。 ルツェルンの街はルツェルン州の州都で、スイス中央に位置し、面積24,15km2、人口約57.500人(2004年12月)の都市である。ルツェルンの名前は750年頃建設されたベネディクト派の聖レオデガー修道院の入植地ルチアリア Luciaria に由来するとされている。この修道院は9世紀中頃、エルザスのムルバッハ大修道院の勢力下に入る。しかし1291年にはハプスブルク家がエルザスなどを買収した。というのは、この地が南ドイツと北イタリアを結ぶ要所であったからだ。これによってルツェルンの街もハプスブルク領になる(この当時のルツェルンの人口は僅か3.000人だった)。 そこで1332年11月7日、ルツェルンは3つのヴァルトシュテッテ(スイス連邦の原形になった3つの州。ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの3州が1291年8月1日、「永久同盟」を結んだ。この8月1日は現在のスイスの建国記念日にもなっている)と同盟を結んだ。ところでルツェルンの街はフィーアヴァルトシュテッテ湖畔にあるが、これは4つの州(ヴァルトシュテッテ)の湖という意味でこの同盟に因んでいる。そして1386年ゼンパッハの戦いでハプスブルク軍に勝利し、ルツェルンは独立を勝ち得ることが出来た。 15世紀にはルツェルンの人口は30.000を数えるまでになるが、当時流行していたペストや幾つかの戦争で人口が減少する。余談だが1506年、ローマ教皇ユリウス2世(1443-1513)が近衛兵として初めてスイス人を採用したが、現在もその伝統は続いている。これはスイス兵の優秀さが有名になり、ユリウス2世が私的な衛兵隊を設けたことに由来する。実際に教皇を救うために戦ったことがあった。 ところでルツェルンの街は交通の要所として発展していくが、16世紀には宗教改革の波が押し寄せる。チューリヒを始めとして多くの都市がプロテスタントになる中、ルツェルンはカトリックの立場を貫き、スイスに置けるカトリックの中心地となった。1789年、フランス革命が起こると、その勢いはスイスにまで及んだ。対オーストリアの関係から、フランスはスイスを中央集権国家にし、ヘルヴェティア共和国として独立させた(1798年)。そしてその首都がルツェルンに置かれた。(1803年、この共和国は瓦解し、1848年スイス連邦が成立する。) 昼食を食べたレストランは市庁舎前にある。そこから市内散策をスタートして、まずイエズス教会に向かった。
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